遅めの夕食の後、部屋に戻ろうとしている時だった。
(……ん゛ん?)
ふと通りかかった幹部用に開放されている広間のソファに見慣れた横顔を見つけ、スクアーロは当然のように進路を変え、そちらへ向かって足を運ぶ。 気配も足音も消す努力はしていなかったので、横顔の主は近づいてくる彼にすぐに気が付き、自らの膝元へ落としていた視線を彼へ移すとほんの僅かに表情を緩めたように思えた。
「スクアーロ」 「う゛お゛ぉい、ナマエ。一人かぁ?」
スクアーロの問いかけにナマエは首を横に振って応える。 白い手の人差し指を立てすっと自らの口元へ持ってくると、彼女の視線は再び膝元へ落ちた。 頭上に疑問符を浮かべながらスクアーロがそれを追いかければ、そこにはナマエの膝の上で見事な鼻ちょうちんを膨らませながら寝息を立てている黒ずくめの赤ん坊の姿。
「絵本を読んでやっていたんだがな、途中で寝てしまったんだ」 「絵本だぁ?」
ナマエの隣に腰を降ろしながら聞き返すと、今度は縦に頷いた彼女がほらと横においていた薄い本を見せる。 狼とヤギの絵が描かれているその本はタイトルさえ平仮名でふってある明らかな児童書で、あからさまに顔を顰めたスクアーロにナマエは少し落とした声で続けた。
「絵本もなかなか興味深いぞ?特にこれは私も気に入っている話でな、狼とヤギが――」 「(……絵本、なぁ)」
ナマエの絵本の大筋の説明を聞くともなしに聞き、時折相槌を打ちながらスクアーロは彼女の膝の上のマーモンへ少々冷たい視線を向けた。 相変わらずぷぅぷぅと膨らんだりしぼんだりを繰り返す鼻ちょうちんが無性に憎らしい。 普通の赤ん坊相手ならそう感じない……と思いたいのだが、相手がマーモンとなると事情が違うのだ。
(専門書も難なく読んでやがるくせに、絵本を読んでもらうだとぉ…?)
7ヶ国語以上扱えるヴァリアーメンバーの、それも幹部が日本語が読めないなんてことはありえない。更に言えば、マーモンは赤ん坊のなりをしてはいるがその中身は赤ん坊とはかけ離れているのだ。
(初めて会った時からずっと赤ん坊だしなぁ……う゛お゛ぉい、実際ナマエより年食ってんじゃねぇのかぁ?!)
ありえない話ではないだろう。マーモンの実年齢は誰にも明かされていないのだから。
だと言うのに、どうやらナマエを大層気に入っているらしいマーモンは自らの見た目の利点を打算的に最大限に利用し しばしばこのように彼女に甘えているふしが見受けられる。 ナマエだってそれにまったく気が付いていないわけではないだろうが、彼女もまたマーモンには甘く、おやつを作ってやったり、シエスタに付き合ったり、彼を腕に抱いて散歩に出かけたりと甲斐甲斐しいまでの世話焼きっぷりを発揮する。 大人気ないことを言っているのかもしれないが、スクアーロからすればマーモンは目障りこの上ない。
(……コレも狸寝入りだったりするんじゃねぇだろうなぁ?)
込み上げてきた苛立ちに任せてスクアーロは指先でマーモンの丸い頬を少々強めに突いた。 「ムッ」と寝言かどうか判断しかねる微かな声を漏らしたマーモンに気付き、ナマエが抗議めいた瞳を向けてくる。
「よせ、スクアーロ。寝かせておいてやれ」 「……つってもコイツ起きねぇとお前が部屋に戻れねぇだろぉ」 「まだ良いじゃないか。それに私は明日非番だ。寝るのが多少遅くなっても問題ない」 「っ、う゛お゛ぉい!お前コイツのこと甘やかし過ぎじゃ、」
「あらあら、ヤキモチはみっともないわよスクアーロ」
「!!?」
前触れも無く背後からにゅっとスクアーロの肩口に現れた人物の甲高い声が不意打ちで耳をくすぐり、スクアーロは自分の全身の毛が逆立つような感覚を覚えると同時に大きく肩を跳ねさせた。 その肩が思いがけず顎に直撃し、声を掛けてきた人物から「おごばっ!!」と野太い声が上がる。
「ルッスーリア、任務帰りか?」 「え、えぇ……ただいまナマエ(今の声とかスルーなのね……)」 「あぁ、おかえり」
ふわりと柔らかく微笑んだナマエにルッスーリアも思わず口を噤み、サングラスの奥の眦を和ませた。 スクアーロの「気配消して近づくんじゃねぇ気色悪い!!」という声も今は耳に入らないようだ。
うふふと上機嫌な笑い声を零しながらコートを脱いだルッスーリアは三人が腰掛けているのと向かい合ったソファの背にそれを掛けて腰を落ちつける。 長身の背を丸め、太腿の上で肘を立てた彼は両手の指を組み、その上に顎を乗せて向かいにいる三人の姿をにこにこという擬音が付きそうなほどの笑みを口元に浮かべながらじっくりと眺め、徐に口を開いた。
「ねぇあなた達、そうしているとまるでコブ付きの若夫婦みたいよ」
「――ぶはっ!!」 「……」
何も口に含んでいないのに噴き出す器用なスクアーロである(※ザンザスの笑い声ではない) そんな彼をチラリと横目で見やってからナマエは小さくため息を付いた。
「やめてくれ。柄じゃない」 「あらぁ、どうして?お嫁さんって言ったら女の子の夢じゃな〜い!」 「………そうなのか?」 「そうよ!そういうモノなのよ!」 「……(異様な光景だぜぇ)」
なぜ本物の女子であるナマエが、こう言っては何だが、紛い物のルッスーリアに女子の夢を説かれているのだろう。 漸く復活したスクアーロは一種の疎外感を感じながら、しかし会話に混じることもできず、今後の参考に、という訳ではないが二人の話を大人しく聞いておくことにした。
「もうっ…ナマエだって結婚とか花嫁さんに憧れてた時期があるでしょう?」 「――いや。そういうコトに一番憧れる時期は……それどころじゃなかったかな」 「!」
スクアーロの型のいい眉がピクリと引き攣った。
そっとナマエを盗み見れば、その口元には微かな苦笑が浮かんでいる。 彼が、言葉は決まっていなかったけれど、とにかく話を遮ろうと口を開くが、それよりも純粋に首を傾げるルッスーリアの質問の方が早かった。
「好きな人とか、いなかったわけじゃないでしょう?」 「………どうだろうな」
ゆるく伏せられた睫の奥で夜空色の瞳が揺れる。 囁くような声を零した唇が描くのは切なげな微笑み。
ナマエがこんな表情をするのは、決まって“彼”を思い出している瞬間だ。
「ッ、――!!」
(思い出すな……!!)
込み上げてきたどす黒い嫉妬。 怒鳴るようにして叫びたい己を押さえつけ、スクアーロはそれができない自分に歯噛みした。
ナマエにそんなことを言う資格はないのだ。 ナマエはスクアーロのモノではないのだから。
それにおそらく、ナマエの中から“彼”の影を完全に消すことなど誰にもできはしないだろう。
彼女は10年もの間ただひたすらに“彼”を想い、追いかけ続け、そして自らの手に掛けたのだから。 消そうと思えば消せる脇腹の銃創を、ナマエが未だに残しているのが何よりの証拠。
『愛して、いたんだ』
あの日、白い病室の中、消え入りそうな儚い声でナマエは言った。 それが身内への感情なのか、それとも異性への感情のことなのか、スクアーロにはわからない。
けれど一つだけ確かなことは、
(――……コイツは、)
ナマエは ふとした瞬間に“彼”へ想いを馳せる。
今も、そしてきっと
(これから、先も……――)
「スクアーロ」 「っ、う゛ぉ?!」
いつの間にか俯きがちになっていた視界にナマエがひょいと入り込んできて、スクアーロの肩がまたしても跳ね上がった。瞠目気味にナマエを見つめる銀の瞳の中で彼女はふっと口元を綻ばせる。
「どうした、辛気臭い顔をして」
私なら平気だ、とその笑顔が言葉の外で伝えようとしている。 その事と、今の彼女の瞳には紛れもなく自分が映っている事に気が付き、スクアーロの肩からゆっくりと力が抜けていく。
ナマエの意識の中には比重はわからない。が、自分もまた確かに存在するのだ。
そう思うと、それだけでも重く淀む胸の内も徐々に晴れていくようだった。
「――ねぇナマエ、花嫁さんを夢見るのは今からだって全然遅くないわよ!」
どこか重たくなってしまった雰囲気を払拭するようにルッスーリアが両手を合わせ、殊更に明るい声で言う。 スクアーロとナマエがほぼ同時に彼へ顔を向けるとルッスーリアの笑みは深くなった。
「折角可愛い女の子に生まれてきたんだものっ!純白の素敵なウェディングドレス、一度は着てみたいでしょう?」 「……いや、でもな、暗殺部隊の女を娶ろうという者はそうそういないと、」 「だったら同業者なんてどう?理解があるわよ」
そこまで言ったルッスーリアの視線がスクアーロに絡みついた。 そこに何か意味深なものと、微かな嫌な予感を感じ取り軽く身構えた彼に、ルッスーリアは非常にわかり辛いがサングラス越しにウインクを寄越してきた。
「――ああっ!そうよナマエ、スクアーロなんてどうかしら?」
「ぶはぁ!!!」
本日二度目である(※ザンザスの笑い声ではない)
(テメェこのキモオカマそんなあからさまな手助けはいらねぇぇえ゛!!!)
あまりの事にナマエの反応も見れないスクアーロを置き去りにしてルッスーリアのありがた迷惑(スクアーロ曰く)は更に続く。
「スクアーロならそう簡単には死なないし、高給取りで、年の差も良い感じじゃない!ちょっとやんちゃだけど優しいところだってあるし、」 「……ルッスーリア」 「――顔だって悪くないし、やられ体質だから何でも言うコト聞かせられるわ。不器用で一本気だから浮気の心配だってないしね」 「ルッスーリア、ちょっと待っ」 「それにヴァリアーは社内…じゃなくて、隊内恋愛禁止されてないわ!ナマエならウェディングドレスもきっと似合うし、新婦の母役は私、父役はボスがやればいいのよ――ほら、完璧っ!」
さぁ、今すぐにでも式の予約をしに行きましょう!と言わんばかりにまくし立てるルッスーリアにナマエからため息が漏れた。
「待ってくれ、スクアーロにだって選ぶ権利があるだろう」
「?!」 「まぁあ!」
ルッスーリアを落ち着かせるためのナマエの言葉は逆の効果を持ってしまったようで、余計に息巻いたルッスーリアが遂に堪えきれないといった様子でソファから腰を上げ、ズイズイとナマエへ顔を近づける。 これにはナマエも驚き、思わず逃げた背中が柔らかい背もたれに深く埋まった。
「それってスクアーロさえ良ければ結婚しても良いってこと?!」 「…え、?」 「だからっ、ナマエの方にはスクアーロと結婚するにあたって何の差し障りもないってことなの?!」 「ぅ…え、…ぁ」 「う゛お゛ぉい!!!そうなのかぁ?!」
今回ばかりはスクアーロもルッスーリアに詰め寄られるナマエを助けてやるつもりはなかった。
ナマエの唇が言葉を紡ごうと動くたびに、その先を期待して心臓が世話しなく大きく脈打つ。しかしそこからなかなか意味のある単語は出てこず、焦らされれば焦らされるほど期待は高まり、妙な緊張感も増していく。
ゴクリと喉を鳴らしたのは誰だったのだろう。
一瞬鎮まった広間の空気を、意を決したようなナマエの声が揺らす。
「わ、たし……は、」
「――君たち、さっきから煩すぎるよ」
が、彼女の下から突然聞えた幼い声がそれを上手い具合に遮ぎってしまった。
((マーモンん゛ん゛んん!!!!))
「マーモン。悪いな、起こしてしまったか?」 「そっちの二人が騒がしすぎてね」
同じようにして怒りに震える拳を硬く握り締めるスクアーロとルッスーリアへ、大きな欠伸の後フード越しの冷たい一瞥が投げかけられる。 マーモンを抱えなおしたナマエの腕の中で、彼は赤ん坊とは思えないほど偉そうに鼻を鳴らした。
「僕の安眠を邪魔するなんて良い度胸じゃないか。いくら絞り取られたいんだい?」 「う゛ぐ…っ、テメェこそ空気を読めぇ……!!!(つか絶対わざとだろ今の!)」 「……さて、何のことだかね」 「(火花が散ってるわぁー……)」
ルッスーリアが困ったような笑みを浮かべながら見守っていると、マーモンを抱いたナマエが徐に立ち上がる。 不機嫌そうにいつもよりも口をきゅっと尖らせている彼を優しい瞳で見つめ、微かに微笑みかける今のナマエはまだ少女ながらも母性的な雰囲気を纏い、マーモンの口元が徐々に緩んでいく。
「お詫びに私が部屋まで運ぼう。それで手を打ってくれないか?」 「……僕がもう一度寝るまで、添い寝と子守唄付きなら考えてあげるよ」 「な゛ぁ?!(添い寝に子守唄だぁ…?!)」 「ああ、お安い御用だ」
再び嫉妬の渦に飲まれるスクアーロと苦笑いが消せないルッスーリアへ背を向け、ナマエはそのままスタスタと広間のドアへ歩いた。
「――じゃあな。おやすみスクアーロ、ルッスーリア」 「おやすみ。ナマエに感謝するんだね」
ナマエの腕の中で満足げなマーモンの声を最後にドアが閉まり、軽い足音がどんどん遠ざかっていく。
「……ろす」 「す、…スクアーロ?」 「――おろす、あのハナタレ小僧いつかぜってぇおろす、俺がおろす、3枚におろす、有無を言わさずおろす、 活け作りにしてそんで……」 「ヒィッ!!(何これ!呪いの言葉?!)」
全身から黒いオーラを出しながらブツブツと低い声で同僚の暗殺を企てるスクアーロに、ルッスーリアは何と声を掛けて良いのかわからず、ただ彼を宥めようとそっとその肩に手を置いた。瞬間、
「さわんなぁ!!そもそもテメェが余計なこと言い出しやがるからだぁ!!」 「うげぼっ!!!(自分だって最後は乗っかったくせにぃっ!理不尽!!)」
まじりっ気なく本気のパンチが鳩尾に決まり、煌く涙が宙を舞った。
一方その頃
「――マーモン、さっきはありがとう」 「何のことだい?」 「私がふられる前に助けてくれただろう?」 「……そうだと思うならそう思っていればいいよ」 「…うん?違うのか?」 「さぁね。それより明日非番なら今晩そのまま僕のとこに泊まっていきなよ」 「(そんなところから狸寝入りだったのか)……そうだな、そうしようか」
通路でこんな会話が行われていたことなど、スクアーロは知る由もないのだった。
(そう簡単にスクアーロにくれてはやらないよ)
(08.02.01)(13.03.13 修正)
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