愛していた
きっと、ずっと
「ハァ…ッ、ハッ…!」
少し気を抜けば途端に闇が迫って来そうな、そんな錯覚を誘う薄暗い石畳の通路を男は走っていた。 額にはじわりと汗が滲んでいるがだからと言って顔色が良いとは決して言えない。拳銃片手に男はしきりに背後を気にして、走る足はそのままに度々首だけ振り向き暗闇を探った。
「クソッ…選りによってヴァリアーとは……っ!!」
男の舌打ちと足音が闇の中に響く。 しかしその中に一つだけカツンと小さな、しかし凛とした異質な足音が混じり、男はビクリと肩を跳ねさせ後ろを確認していた顔を正面へ戻した、刹那、
バンッ――!!
「ッ?!」
空気を切り裂く破裂音と共に、拳銃を持っていた右手を酷い衝撃が襲った。 弾かれた拳銃が痺れた彼の手を離れ、ガラガラと音を立てて石畳の上を滑るようにして転がる。咄嗟に強く眼を閉じた彼の耳はリボルバーの弾倉が回転する微かな音を聞き分け息を呑んだ。
『マズイ』
そう思った時には続けざまに4度銃声が響き、激痛が彼の四肢の自由を奪った。
「ぐっ、ああぁぁあああ!!」
両腕と、両足の太腿が焼けるように熱く、心臓の動きに合わせて痛みと血液が溢れ出す。絶叫と共にその場に崩れるように倒れた男の前にあの足音が近づいてくる。
カツン、カツン、と一歩一歩何かを振り切るような、毅然として、しかしどこか悲しげな音。 容赦なく自身を襲う痛みの中なんとか顔を上げて眼を凝らせば、通路を照らす微かな光に姿を現した人物はまだ幼さを残した顔立ちの少女だった。
「久しぶりだな、ギー・ギルブレイズ」
男の名前を呼んだ、その声。彼を見つめる、漆黒の瞳。
つい最近――いや、もっと昔にも見覚えがある。遠い記憶の底で、彼は確かにその主を知っている。
「お前、は…?」 「――覚えていない、か?冷たいことだな。つい先日10年越しの再会を果たしたばかりだと言うのに」 「10…年……ッ?!」
ハッと息を呑んで信じられないものを見る様に目を見張ったギーに少女は口の端を上げて笑みの形を作った。それはとても不器用に歪んでいたけれど。
「油断したな、ギー。待ち伏せされるのは予想外だっただろう?ここを知っているのは、今やお前だけだと思っていたのだから」
その言葉は当たっていた。この隠し通路のことは、彼を含め歴代のボスにしか伝えられていない。 たった一人、かつてまだ幹部の一人であった彼と庭で遊んでいる内に偶然にもここを見つけてしまった少女を除いては。
「ナマエ…お嬢、様……ッ!!」
ギーの額から脂汗が零れ、その顔が蒼白に変わる様をナマエは静かに見つめた。 愛銃を握る手が微かに震えていることなんて、この男には悟られたくない。瞳が熱を持っていることなど、尚更。
「な、ぜ…こんな、所、に」 「…任務だよ。今はヴァリアーで策士をしている」 「ヴァリアー…!?」
驚きを隠せないギーの様子にナマエは小さく自嘲気味に笑った。
「驚いたか?……全て、お前のためだ」
「――お前に、復讐するためだけに、私はこの10年生きてきたんだ」
カチャッという無機質な音と同時に構えられた拳銃の照準が寸分の狂いもなくギーの心臓に定められる。漆黒とヘーゼルの瞳が交錯し、沈黙が生まれた。
「――何か、言い遺すことはあるか?」 「……ハッ、命乞いなら、喜んで」 「くだらない冗談だな」
皮肉げに笑って言ったギーにナマエは同じようにして返す。互いに口には出さないが、二人の間には不思議な懐かしさが確かに芽生えていた。一人が銃を向けて、もう一人が満身創痍であるという事実に目を瞑ることができたならば。
「なら、私から一つだけ。ずっとお前に訊きたかったことがある」 「…なん、です?」 「――なぜ、あの時、」
10年前の、あの日。
「私を殺さなかった?」
ナマエのその質問にギーは一瞬驚いたように瞠目し、やがて片眉を下げて苦笑した。それは困った時に良く出る彼の癖だった。
「………俺が、欲張りだからですよ」
「自分の命が惜しかった、けれど…――あなたの命も惜しかった」
ギーの言葉に目を見開くのは今度はナマエの番だった。
「あなたには、生きていてほしかった…美しく育ったあなたを、見たいと、思った」 「…ッ、出任せを言うな!」
再び拳銃を構えなおしたナマエを、ギーは痛みに顔を歪めつつも苦く笑って見つめる。
「パーティーで会ったお嬢さん、も…あなた、でしたか」 「うる、さい…っ」 「やはり、俺は間違っていなかった…あなたは、美しく、なった」 「うるさい……っ、煩い…!!」 「欲を言うなら…ナマエお嬢様、あなたには……この世界から抜け出して、普通、の…幸せを」
「煩い!!!私の名前を呼ぶな!!」
お前にそんな顔で名前を呼ばれると。 心が 乱れて、壊れてしまいそうだ。
ギーの声を遮って叫んだナマエがヒップホルスターから一丁の拳銃を新たに引き抜いた。 思わず身を硬くし、目を閉じたギーの右手のすぐ脇にその拳銃が蹴り転がされる。驚いた様子で拳銃とナマエを交互に見やる彼に、ナマエは微かに息を上げたまま、冷たく狂気めいた微笑を向けた。
「……あの日、お前が私にかけた情けを返してやろう」
「それにも私のにも、一発だけ弾が入っている。カウントは3つだ。その腕で撃てるものなら、撃ってみろ……!」
ふっ、と青い顔のままギーはまた苦笑いし震える腕を伸ばして拳銃を掴む。たったそれだけの動作でも既に四肢を撃ち抜かれている体は気が狂いそうな程の激痛を脳に訴えるが、彼は殆ど気力だけでそれを持ち上げ、引き金に指をかけた。
「賭けをする、おつもりですか…?俺と」 「……ああ。お前には随分世話になったからな。銃の扱い方を教えてくれたのも、お前だった」 「あなたは飲み込みが早かったから、教え甲斐がありましたよ」
他愛ないように思える思い出話をしながら、しかし二人は互いに銃を向け合う。ギーの震える手にある銃が自分に向けられてもナマエは不思議と落ち着いた気持ちでそれを見ていた。 10年間、渇望し続けた瞬間が漸く訪れるのだ。
――彼女自身の手で、この男の命に終止符を。
愛銃を構えるのとは別の手でナマエは隊服のポケットを探り、銀色の懐中時計を取り出した。パチンと無造作に蓋を開けて、それを石畳の上に置く。 まるで時が止まったかのような錯覚を引き起こしていた沈黙を破る懐中時計の秒針は不釣合いに柔らかな音を響かせる。
本当に時が止まることなど決してない。それは常に流れるものだから。 そう、ナマエの運命を変えたあの日から、全ては今日この瞬間に向かって進み続けていた。
「…――Uno」
静謐の中、ナマエのカウントが始る。ギーが撃鉄を上げた音に続いて秒針がまた進む。
「Due」
引金にかけた指に力を入れた。 ナマエの銃口はギーの心臓を寸分のズレもなく捉えている。
そして――ギーも確かに、ナマエの心臓を捉え、彼はその口角を上げた。
…――バンッ!!!
まったく同じタイミングで重なり合うようにして響いた二つの銃声。
「――ナマエ…?」
遠くで不意に名前を呼ばれた気がして、振り向いたスクアーロは窓の外に昇る繊月を見上げた。
(→)
(07.09.25)(12.11.14 修正)
|