頬をなぞる手つきにぞわりと肌が粟立つ。水際に触れている様な冷たさが四肢をじわりと浸蝕する。
「インゴ、さま」
戸惑いの多く含まれた声音が愛おしく、インゴは珍しく穏やかな笑みを浮かべる。
「エメットさま、?」
しかしその声音がエメットに向けられるのは酷く気に喰わない。インゴはノボリの肩を抱いてまるで自分の物だと言わんばかりに抱きしめる。エメットはそれでも余裕を保ったままに、にやにやと下卑た笑いを浮かべた。
ノボリはやがてぼうっとした表情のままされるがままになる。諦観と傍観を滲ませた鈍色の瞳にざわりと背中が不穏を感じた。その瞳に鮮やかさを取り戻したくて、今度はエメットが手を伸ばす。猫にそうする様に喉元を擽ると、珍しく、むず痒そうに笑った。
しかし両目は凪いだままだ。
窓の外をじっと見て、大空に憧れる篭の鳥を想起させた。逃してはならない。インゴは肩から手を滑らせて平たい腹の前で己の手を組み、エメットは左手も伸ばしてその鼻先に口づけた。
増した密着度にノボリが戸惑いを見せる。
いかがなされたのですか、という声にインゴは無言で、エメットは笑顔で答えた。
「どうしたの?物欲しそうな顔してるけど」
インゴには判らない、ノボリの微細な感情を見抜くのがエメットの仕事だ。インゴは、ノボリに関してはかなり譲歩も善処もしているつもりなのだが、それでもままならない事は多い。元来人の顔を伺う事がインゴは苦手である。対照的にエメットは相手の機微に敏感だった。
「エメット様」
「うん」
「私外に出てみたいのです」
「そうなの」
エメットの声音に動揺は無い。インゴは組んだ手の力をやや強くする。
ノボリが不思議そうに顔を上げた。無垢で穏やかな表情に疑問が追加される。誤魔化すように額に口づけを一つ。
外という概念がノボリにある事がインゴにとっての誤算だった。それは恐らくエメットに関してもだ。にこりとしたアルカイックスマイルは全く感情を読ませなかった。だがインゴには判った。「完膚無きまでに壊したのに」というその、不完全さへの苛立ちを滲ませた笑顔。
「どうしてそう思ったの?」
「お二人の仕事着を見てると、なんだか無性にそう思ったのです」
仕事着というのは恐らく、二人が仕事に出かける時のコートだろう。白と黒。対の色。
まだ残っていたのか。案外しつこい。
「だめですか」、とノボリがぽつりと聞いた。俯く所作の途中で首に巻きつくチョーカーが微かに音を立てた。首輪じゃあ無粋すぎる、というのが二人の合致した意見だった。鎖はいらない。代わりに、記憶に鍵をかける。
「うーん…………ノボリにはちょっと早い、かなあ」
「あまり私たちを困らせないでください、ノボリ」
ぼそりとインゴが言った。ひくん、とノボリの肩が跳ねた。エメット見ると、苦笑して緩く首を振る。どうやら怯えているわけではないらしい。
「…………行ってみたいのでございまし」
「外は危ない。貴方に何かあったらと思うと私たちは恐ろしくてなりません」
流暢で、早口な日本語だった。英国人にしてはやけに達者な日本語だが、ノボリはそれに驚かない。それが当たり前だと思い込んでいる。そういう風に、二人がした。
「………………ごめんなさい」
大人しくそう言って引き下がるノボリに、いい子だと言って二人はキスをする。
そんなやけに甘ったるい、しかし不自然な様相を呈した空気に無粋な音が割り込んだ。ライブキャスターの着信だ。
「…………チッ」
「いってらっしゃい、インゴ」
ノボリが不思議そうに、音を立てて鳴り響くライブキャスターを見ていた。インゴは早々にその部屋を後にする。扉を閉めた後に、簡易な蝶番と重々しい南京錠と電子セキュリティと、その他羅列するのも面倒になる量の様々な『鍵』がひしめくその扉の前に立つ。そしてやっと通話を開始した。
「クダリですか?」
『インゴ?ねえ、ノボリがどこに行ったか、』
「すみません。めぼしい情報は、まだ」
発言を遮ってインゴはそう言った。『そ、う』あらさかまに落胆した声をインゴは冷めた気分で聞いていた。
『ごめん、何度も』
「別段迷惑ではありません。何かありましたら、どうぞ私どもを頼ってください」
ありがとう、と零す声を聞いた後にインゴは再び部屋に戻る。
「お帰りなさいまし」
「誰から?」
「仕事の連絡です。ダイヤは通常通りだそうで」
エメットがにまりと笑う。上手くいっている。後は、この美しい鳥に飛ぶ方法を完膚無きまでに忘れさせるだけ。


幸も不幸も知らないまま、鳥は未だに空を知らないと思い込んだままだ。






小指を喰らう残像