※カニバリズム注意













耐え切れなくなったのだ。一言で言えばそういう事だ。
物欲し気な目をしてノボリはじぃ、とクダリの首元を見ていた。白いコートから見える白い喉元にごくりと喉が上下する。
「ノボリ、どうしたの?」
視線に気付いたか、クダリが不思議そうにノボリに問い掛けた。ひく、と肩を震わせてノボリは伺う様な仕種でクダリを見た。それで全てを悟ったか、「ああ」とクダリは頷いて、左手の手袋を外す。
自分の机にそれを放り投げ、クダリは一番近い位置にあるソファに腰掛けた。
「ほら」と言いながらその手を晒す。
ノボリは目を見開き息を呑んで、くしゃりと顔を歪めた。罪悪感と欲求がまぜこぜになった顔だった。
「どうしたのノボリ」
良いのに、とクダリが笑う。愛しさすら滲ませた表情は、免罪符代わりになってついついそれに甘えてしまう。
ふらふらと近寄って、ノボリは躊躇わず床に膝をついた。黒いコートがその動きに沿って、僅かに遅れて床に触れる。
その頬を、手袋をしていないクダリの指がするりと這う。心地好さそうに瞳を細めたノボリの目元は、微かに朱が差していた。
クダリは帽子を取ってやり、己のそれも脱いだ。ネクタイを緩め、何度か深く呼吸する。ノボリを見た。
ぶるぶると唇が戦慄いていた。抗い難い欲求と、それによる悦楽と満足を望む瞳は、しかし確かにそれを恐れていた。抑圧された本能が、じわじわと理性を侵食していくのが判る。今か今かとクダリを見上げる顔は、犬の様に従順だった。
そうして、クダリが追い打ちをかける様にして言うのだ。
「よし」
差し出された左手の中指を、やや躊躇いながらノボリは啣えた。指先を舌でねぶり、何度か甘噛みをする。肉の感触を確かめるかのようだった。
そうして暫く経った頃、ノボリが大きく口を開く。
がりり、と音でなく衝撃でクダリは今起きている事を明確に知る。爪が噛み砕かれたのだ。びりびりとした痛みに眉根がよった。中指を中心として、力が入らない。
ずずっ、と物音がした。血が啜られているのが判る。鉄分摂らなきゃなあ、と思いながら全身を弛緩させる。そろそろだ。
皮膚が引き千切られるのが直に伝わった。肉が外気に晒されてすーすーと冷めていく。だがそれも、痛みという熱さに焼かれて冷たさは判らなくなった。
身を喰われていくのが判る。にちにちと筋肉に歯を立て、ぶちぶちと繊維が引っ張られ、やがて切れる。そうしてそれは片割れの口腔へ入り、喉を滑り、胃へと行き着く。
クダリはノボリの頭を撫でてやった。ノボリはクダリの、肉親の指を喰らいながら、ぼろぼろと涙を零しているのである。
だからクダリは、それを慰める様に撫で、安心させる様に笑う。しかし。
「美味しい?」
ノボリはその問いを聞いて、泣きそうな顔をした。彼は世間から見て、自身が異端であり変質者であり異常だと、そう正しく理解していた。クダリは微塵もそうは思わないが(家畜を捌いて食うというのに、何故ヒトを喰ってはいけない?)、しかし彼の兄は存外色んな物に縛られていた。
クダリはそれを判っていて、これを問うている。罪悪感や背徳は、人間を魅了してやまない。
「………………はい」
ややあってノボリが首肯した。涙で濡れた頬、口元から零れた血液。綺麗だ、と思った。
ノボリが再びクダリの指に歯を立てた。咽び泣きながら、肉を咀嚼し嚥下し、肩を震わせまた食べる。
クダリは満足感で一杯だ。まさしく至上の瞬間だ。今、ノボリはクダリ無しでは生きられないと、心底思い込んでいる。
ただ、最近問題が生じてきた。
クダリは左手を見た。小指は根本から失せ、薬指は骨が見えたままだ。回復までどのくらいかかるのだろうか。いや、そもそも、回復するのか。
クダリはあと数ヶ月もする前に、左手が無くなる気がしてならない。







梔子の手足