うっかりうたた寝をしていたらしい。
ノボリは上体を起こす。柔らかいソファの感触が背中に色濃く残り、あの惰眠がまだ名残惜しい。
伸びをすると、左手の小指に、いつもはない奇妙な違和感を感じた。
その小指の根元には、赤い糸が丁寧に結び付けられていた。蝶々結びだった。
「……………」
ひく、とノボリの顔が引き攣った。
思考を僅かばかり巡らせ、すぐさま浮かんできたのは愚弟の顔だった。低く短い嘆息を吐く。
仏頂面を通り越し、最早ただの無愛想をぶら下げた表情のまま、ノボリはコートを羽織りながらその糸の先を見た。糸の方向を見る限り、出入り口のドアノブに繋がっている様だ。
どちらにせよ仕事はしなければなるまい。備え付けの時計を見ると、あと十分もすればノボリの休憩は終わりだった。
糸を解こうと、赤い糸を引っ張った。
その糸はぴん、と張ったきり解けなかった。
「…………は?」
呆けた声が出て、ノボリはそれを繕う事も忘れて、ドアノブに近づいた。その間も、何度か小指の糸を引っ張って蝶々結びを解こうと苦戦していた。糸が解ける事は無かった。
どんな結び方をしたのだろう、と思ったが、とりあえず根元を切ればいいではないかとドアノブを見た。
そこに糸は繋がっているのか、と、それを覗きこんだが、糸はそこで終わっていなかった。鍵穴のわずかな隙間を伝って、外へ向かっていた。
扉を開けると、糸はまだ何処かへ繋がっていた。
「………………」
すれ違う鉄道員たちの小指にもそれらはあった。往々に糸は様々な方向を向いており、時折女性職員と男性職員が繋がっているのも見た。誰もそれに気付いた素振りは無く、見えているのはどうやらノボリだけの様だった。
訳の判らない理解の及ばない事態に、ノボリは首を傾げた。
自分に見えているのだから、クダリにも見えるかもしれない。ノボリはそう思って、片割れのいるだろうダブルトレインへ急ぐ。どうせ休憩の交替を伝えなければいけないのだし。
それにしても、と己の小指を見る。この糸は、何処に繋がっているのだろうか。
世間一般で言う所の赤い糸なのだろうか。この事態を真に受けて考えるなら、この糸を辿れば、ノボリの運命の人とやらがそこにいるのだろう。
ギアステーションの中央に来ると、見知った姿を見た。
「ノボリさん」
「トウヤ様」
こんにちは、と挨拶されて同じ様に返した。「いつもご利用頂きありがとうございます」と、頭を下げる事も忘れない。
「いえ、そんな!所で、トウコを見かけませんでしたか。待ち合わせしてるんですけど」
「トウコ様ですか?いいえ、存じておりません」
よければ、放送でお呼び出しでも致しましょうか。
そう言うと、苦笑しながら大丈夫ですと言われた。確かに、彼らは何度も此処に来ているから、見つけようと思えば、すぐにお互いを見つけられるだろう。
ふと、トウヤの小指が目についた。不思議な事に、今まで見た糸と違い、彼の糸は空へ空へと伸びていた。彼の運命の人は、何処にいるのだろうか。
トウヤと別れて、ノボリはダブルトレイン近くになって、漸くあの白コートを見かけた。
クダリ、と口を開こうとして、瞠目する。
彼の糸と、自分の糸。
ぐ、と引っ張った。糸は今まで以上に張って、クダリの小指が連動するように上に動いた。
クダリは怪訝そうな表情で己の小指を見て、そしてその後にノボリを見つけた。
「ノボリ!」
ぶんぶん振られる右手のせいで、糸も同じように揺れる。
強かにぶつかる糸の感触を感じながら、ノボリは眩暈がした。また、その糸を目で追う。
糸は白とか黒とか青とかそんな事は無く、赤かった。






指先だけの逢瀬を