心臓のすくむような思いをした。


ある日のことだ。律はぼんやりと空を眺めていた。曇った、雨の止んだ直後、まさしく陽が差す前の空だ。することがないからそんなことをしていたのだが、しかしその意に反し兄はひどくうろたえて「律、何かあったの?」とためらいがちに聞いてきた。別に何かあったわけではなかった。あえて言うなら暇で、そんな気分で、何もすることが思いつかなかったからだ。だから「何もないよ」と答えた。そう、と暗く瞳を伏せる兄を視界の端に入れつつ律はしまったなと思っていた。何も心配させるためにそう言ったわけではないのだから。律も一緒になってうろたえていると、ふわりと何かが浮いた。そちらを見ると、水泡のようなものが眼前にあった。「うわ」驚く。これは水泡ではない。水だ。水の玉だ。先ほど降った雨の雫が浮いて、まるでカーテンか何かのように律の前で浮いていた。指で触れると、軽い感触と湿った水気を伴ってそれは割れた。ようやく差し込んだ陽の光にあてられてそれは七色にきらめいた。「すごい」そう呟くと、茂夫は、兄はいまだ心配そうな顔をして「元気出た?」と問いかけた。律は心から笑ってうんと頷いた。普段あまり人前に超能力をさらそうとしない兄がこうして自分を元気づけようとしてくれるのが、律は心底うれしかったのだ。


ある日のことだ。律は怪しげな事務所に入る茂夫を見かけた。『霊とか相談所』奇妙な名前だ。そのような怪しげな場所に出入りする兄が心配でならなかった。何日かその事務所を見張ると、兄と青年がそこから顔を出した。知らない青年だった。親しげに会話をする様子からして、脅されているというわけでもないのだろう。その点はよかったと胸をなでおろした。ただ、その青年はあまり好ましくなかった。見るからに怪しい事務所を経営していて、見るからに怪しい容姿をしていて、見るからに怪しい目をしていた。あの目は、幾度か見てきた。茂夫を異端とみなし、道具とみなす、人以外のヒトを見つめる瞳だ。ああ、いやだ。兄に、聞かなければ。どういう関係なのか。どういう経緯で知り合ったのか。「師匠」突き抜けるように入ってきた単語は律の心を揺さぶる。ししょう?死傷、支障、四升、様々な単語が浮かぶが、ニュアンス的にもやはり「師匠」としか思えない。そのように呼び慕うのか?あの青年を?一足先に家に帰る。悶々とした時間が過ぎた。茂夫の帰りが遅い。そわそわしていると母が不思議そうに律を見た。タイミングよく開いた玄関の扉に、丁度通りがかった風を装って「遅かったね」と言った。兄は部活に所属していない。つるむような目立った友人も少ない。「ちょっとね」と誤魔化されてしまった。あの人はどういう関係なの?口は開かなかった。


今日のことだ。兄はひどくつらそうな顔をして帰ってきた。雨にずぶぬれで、まさしく濡れ鼠といったところか。タオルを持って部屋に行くと、顔を伏せて疲れたように座り込んでいた。いくつか質問をする。すり抜けていくような具体性の少ない回答にやはりかと諦観が湧き上がる。「一応聞くけど、」一応?一応とはなんだ?なにを知っているのだ、自分は。ひたりひたりと外で降る雨のように忍び寄る奇妙な予感に律は知らないふりをする。首元に添えられた他人の手は冷たくそれだけで背筋が粟立つ。振り返ってはいけないのだ。そこにいる何かには、知らないふりをしなければならない。気づいた瞬間、きっと律は足元から崩れ落ちてしまうから。本当はわかっているつもりなのだ。何かも。振り向かないことや近づけないことや戻れないことや愛されないこと、望まれないこと。一歩下がって寂寥、二歩下がって後悔、三歩下がって得体のしれない恐怖がこみ上げる。知りたくなかった。兄とこれ以上会話したら、駄目になる。そう思って部屋を出ようとしたとき、爆弾が落とされた。「律」あの時はごめんね。


泣いている兄を律は久しく見ていない。誰かの知らないところで泣いているのだろうか。赤く腫れた目元とは対照的に青い顔色はざわざわと湧き上がるいやな予感を助長させる。(やめて。)自分の知らない兄がいて、兄はそのことについて何も思っていないのだろう。(やめて。)なにをしていたの。なにを思ってこんな時間まで外にいたの。部活はもっと早くに終わっていたんでしょう。指先が冷や水を浴びせたかのように痙攣する。熱に浮かされてもなお顔色の悪い兄を気遣って部屋を出た瞬間、我慢していたものが胸を突いた。鋭く細い針は、確実に心臓を射抜いた。溢れ出す血と静かになる心音。そのような妄想が頭をこびりついて離れない。「にいさん」ドアにもたれかかる。向こう側に感じるかすかな息遣いはどこまでも遠く。開く。かすむ。

「どうして、?」

ぼくがもっていたゆいいつはいったいどこにいってしまったの。






狭心症




2012.10.27