超能力を使えるようになった日は、彼の夢が全て電車に乗る夢に変わった日だった。


花沢輝の見る夢は、電車に乗っている夢だ。夜行列車の如く長く連なる車体と、まるで夕暮れ時のような、血のように鮮烈な色をした夕日が常に差し込んでいる。規則的に揺れるそれに揺られながら、輝はただ自分とは反対側にある景色を見つめている。海のような、湖のような。出来損ないなのかそれとも朽ちてしまったのかは判らないが、電柱のような柱が出鱈目にその水鏡に影を映していた。どこまでも伸びるそれは時たま輝を影で覆い、そうしない内に視線の端へずれていった。
これを見出したのは、それこそ超能力が使えるようになった幼い頃で、その頃はこんなにも殺風景な景色ではなかった。時にはにぎやかな街を通ることもあれば、落ちてきそうなほど大きな満月が彼を電車の外から見下ろしていた事もあった。きちんと駅に留まる事もあった。しかし輝はそれから降りようとしなかった。電車から見える景色は彼の幼い好奇心を煽るには充分だったのだ。そしてその時点から、電車には彼以外いなかった。同乗者は、一度たりとて見た事がなかった。
年が経つにつれ、夢の中の輝も成長した。小学生の時は私服だったが、中学生になってからはその制服になった。風景は次第に殺風景になり、初めは一つしかなかった車両は今や長く連なり終わりも始まりも見えない。建物はなくなり、空は夕日のみを掲げ、影はただ気落ちしたように長く長く続いていた。
風景を楽しむ事はなくなった。そんな余裕は彼にはなかった。
夢を追う事に疲れた。好奇心は彼にとって毒になってしまった。
がたん、ごとん、と揺れる車体。揺れる身体。ため息を吐くのは自制心が働き、泣き言はプライドが飲み込んだ。
彼の夢に人間はいなかった。どんなににぎやかな街にも、どんなに叙情溢れる景色にも、どんなに高くそびえる建物の中にも、輝以外の生き物はいなかった。彼は飢えていたのかもしれない。たとえるならば体温に。たとえるならば声に。たとえるならば気配に。
ああそれでも。いないものはどうしようもなく。
「……………………」
輝は黙って車窓の外を眺め続ける。確かに動いているというのに代わり映えのない景色を。ずっと。

しかしそれにも変化が訪れた。

その日の夢は、久々に月が現れた。やあ、とでも言いそうな程大きい、クレーターを間近に臨む夜空。星は無かった。月がその光で全て食べてしまったのかもしれない。
瑠璃色、とでも言えばいいのか。月を境に水鏡は相反する世界を作っていた。波紋一つ起きなかった水面にはぽつりぽつりと小さな模様が形作られている。よぅくめを凝らすと、波紋の中心には瞬く光があった。光は軌跡を描いて沈んでいく。そうか、と思った。星は強い光に呑まれたのではなく、ながれていったのだ。
電車が徐々に速度を落としていっている事に彼は気づいた。顔を上げる。初めて自分がずっと顔を伏せていた事に気付いた。首を向けると、古臭いが大きい屋根の下、簡素なベンチや自動販売機があるのが見えた。明りの類はない。それもそうかもしれない。夜ですらこんなに明るいのだから、電燈などいらないだろう。
そしてそこに、瑠璃色に溶け込むことにできない黒い姿を見つけた。
決して相容れない相手だった。何を考えているか判らない無表情で輝の乗る電車を見ている。
電車はかなり久々に止まった。扉が開くことはなかったが、輝はその扉の近くに行き人影をより近くで見た。影山だった。輝の存在を根底から揺るがす、初めての存在だった。
「なんでいるんだ」
影山は応えない。暗澹とした瞳で輝を見ていた。青に溶け込めない黒はそれはもう滑稽だった。
扉に手をかけると、初めてそこに窓がない事に気付いた。腕を伸ばすと、触れられそうで触れられなかった。
「なんでお前が、はじめて見る人間なんだ」
影山は応えない。瞳が不意に伏せられて、月明かりに照らされて肌だけが不気味に浮いて見えた。波紋は音を伴うようになった。ぽちゃん、ぽちゃん、断続的に音が鼓膜を震わせる。
「なんで、お前が、そっちにいるんだ」
電車の外は決して輝が足を踏み入れられない場所だった。地面に付くことのない手が彷徨うように空を掻く。影山が、笑った。少しだけ口角を上げて、ぎこちなく微笑んだ。笑うことを知らない子供が、精一杯作る笑顔のようにそれは未完成だった。
「それは、きのせいだよ」
気付けば電車に乗っていたのは影山だった。位置関係は全く変わっていないのに、輝の革靴は駅のコンクリートを踏みしめ、風を遮られる事無く感じられ、温度は肌をくすぐるのがわかった。
影山の乗る電車は輝のそれより短かったが、年季がかなり入っていた。まるで路面電車のような頼りなさだ。少し高い位置に立った影山は無表情に言う。
「降りようと思えばいつでも降りれたんだよ」
「じゃあ、お前は」
降りないのか、というのは憚れた。そのまま、車体はゆっくり動き始めた。月は沈み、反対の空は明るく水面を照らし始めた。ぎらりとした光が瞳を焼く。
影山は踵を返して、輝と同じように座席に座った。一つ違うのは、彼は頭を伏せずにそのまま外を見ていることだ。彼の視界には、いったい何が映っているのだろうか。それは輝のうかがい知れることのない疑問であり、そして一生理解できないものなのだろう。

その日から輝の夢は、停留所にいる夢になった。昼を絶えず繰り返す駅。相変わらず、自分以外に人間はいなかった。






メトロ




2012.10.09