夜の澄み切った空気が肌を刺した。家じゅうに蔓延するその鋭い空気はしかしまだどこか柔らかさを帯びていて、冬と言うには早すぎ、夏というには遅すぎていた。四季を大気で感じながら律は細心の注意を払い、家を歩いた。草木も眠る、丑三つ時のときだった。
ぎし、と微かなはずの床の音がやけに耳をついた。家鳴りは心臓をじかに叩き、呼吸は膝を脅す。何故こんなにもびくびくとしているのか、と自嘲すら漏れた。
緊張の理由などわかっている。―――今から律がしようとしている事は、中学生の彼にとって最低なことの一つだった。
「にいさん」
声に出さす呟いたつもりだったのだが、かすかな振動で秋の空気は戦慄いた。背中にじわりと湧く汗とだいそれた決意だけが彼の足を進めていた。
兄の、茂夫の部屋に来た時にそれらは頂点に達したが、子供にしては屈強な理性でもってそれを更地に戻す。ふうと深呼吸をすると、高ぶっていた体温はすっと引いて行った。ドアノブを握る。回す。
家族を疑うことを知らない茂夫は思春期にも関わらず鍵をかけるということをしなかった。やましい事がないという事だろうし、扉の意義すら感じていないかもしれない。閉めてないと寒いかなあ、くらいの認識だった幼い頃。しかし今、鍵は律にとって最重要アイテムだった。部屋の鍵、携帯のパスワード設定、思考への蓋。これらが無ければ兄との生活は成り立っていなかったに違いない。部屋へ足を踏み入れると、微かだが兄のにおいがした。
すうすうと規則正しく眠る茂夫の顔を見、律はゆっくりと息を吐く。悪夢なぞめったに見る兄ではないが、たまに魘されているときは無性に起こしたくなる。起こして、貴方を傷つけるものはないのだと抱きしめたくなる。無論そんな事をすれば「何故この部屋にいるのか」という事を聞かれるので不可能なのだが。
平素では常に目のすぐ上で分厚く居座る前髪は、寝ていても通常運転だった。邪魔そうに感じたので、少しばかり払って額を出してやる。ニキビなどというものとは縁がなさそうだが、この前髪のせいか彼の額は意外にもニキビと仲がいい。勿論兄がそんなことを気にするわけもなく。たまには露出してやらないと肌も痛むじゃないかと言ってやりたい。
その後、律はすぐ近くにある本棚を眺めた。暗がりに慣れた瞳で一冊一冊、タイトルを追っていく。漫画の占める率の高い本棚だが、ごくたまに気まぐれのように文豪の作品がある。その中には律が勧めた本もあって、嬉しくなった。毎夜毎夜こうして本棚のみならず彼の部屋を眺めるわけだが、このように存在する律の与えた兄への影響を眺めてはどうしようもなく満たされる。
鞄の中を見たらさすがに不都合が起きるかもしれないので自粛する。兄はもっぱらサイコキネシスを使うし、律もそういった所しか見ていないのだが、もしかするとサイコメトリングやテレパシーの類も扱えるかもしれない。鞄に不信感を持たれそれらを行使されたら、一発で律の行いは白日の下に晒されるだろう。あってはならない事だ。素晴らしい、自慢の弟。今だけはそのステータスを崩すわけにはいかないのだ。
「兄さん」
今度は声に出した。熟睡してる茂夫にその声は届かない事だろう。それでいい。今は。
膝をつき兄の顔を間近で覗き込む。確かに、普通の顔だった。整っているわけでも崩れているわけでもない。ただ、陰気な印象はあるかもしれない。まるで幽霊か何かのように白い肌は夜闇の中でもぼんやりと浮いて見えそうな程だ。また、体温が上がってきた。幼さの残る、しかし広い手のひらを兄の首に当てる。身じろぎすらしない。動脈の感触とじかに感じる体温にどうにかなってしまいそうだ。ああ、兄さん。兄さん。兄さん。
「…………………りつ?」
はっと顔を上げた。胡乱気な瞳の兄が、ぼんやりと律を見ていた。りつ?もう一度繰り返された舌足らずな声に頭に血が上る。
「…………どうしたの………?」
「ううん、なんでもないよ。夢だよ兄さん。これは夢なんだ」
「……………ゆめ…………」
鼻先に口づけをする。すると兄はしぱしぱと瞳を瞬かせて、そうか、と納得した。律が、弟が自分の鼻先にキスをした。なるほど、これほど非現実的な事もないと目を閉じる。ばくばくうるさい心臓と、初めて兄に触れさせた唇に乗った感触により体温が上がるのが判る。
沸騰しそうだ、というのはこういう事か。
「兄さん」
もう一度呼びかけるが返事はない。兄はすでに夢の中らしい。ゆっくりと顔を近づける。鼻ではなく、唇に。
頼りない感触だけがして、律は身体を一瞬で離して、やはりまた名残惜しそうに顔を近づけた。薄く呼吸する口元はわずかに開いている。先ほどの、当てるだけのようなものではなく、その隙間を塞ぐように覆いかぶさると「ん、」と兄が唸った。
呼吸すらも奪いたかった。唾液を啜り上あごの感触を確かめ、舌を擦り合わせたいと思った。しかしこれ以上兄を穢すような真似はできない。再び唇を離したときに感じたのはどうしようもない後悔だった。
ああ、自分なんかが、兄と。その興奮と自己嫌悪は彼を歓喜に喜ばせ、嫌悪に叩き落としたりと忙しなかった。
やがて律は立ち上がる。「おやすみ、兄さん」扉を閉めながらああ、初めて触れてしまった、と充足感と後悔に苛まれながら廊下を歩く。ぐちりとした粘性を伴った何かをやけに感じる下着をその時ようやく自覚し、ついに自己嫌悪が興奮を上回った。
「好きだよ兄さん」
いつになったら言えるだろうか。




ライク・ア・チャイルドライク・チャイルド




2012.10.04