壁一杯に広がる青い絵の具は不思議な程に無臭だった。服が汚れる事もいとわず、赤い腕が青く染まる事も気にしない様子のシグは、その背丈が許す高さで精一杯青を塗っていた。白の上に青が覆いかぶさる。身体を借りた姿の魔物が無言でそれを見ていた。
少年が歩くたび、床もまた青で染められた。ただ白いだけの空間にある色彩は、シグと魔物と、青。どこからかは判らないが、大きな刷毛とペンキの詰まったバケツを手にしたまま、シグは部屋の真ん中にあるテーブルに戻る気配を見せない。魔物はただ青を見守る姿勢で、つまらなそうに頬杖をついていた。
「何をそんなに焦っている」
青の占める面積の多くなった頃。魔物が少年にそう問い掛けた。振り返る事なく、シグは刷毛を動かしながら「何が」と返した。どうやら通じにくかったらしい。
「何故ペンキを塗る」
質問を変えた。シグはややあって「こわいから」と答える。
「怖い?」
「お前からそっち側、真っ赤」
言われて後ろを見ても魔物の目には、背後はゆったりとした空間を持った真っ白な床と壁にしか見えなかった。成る程。魔物は納得する。これは夢か。
魔物の夢なのかシグの夢なのか、はたまた双方の夢か。それはまったく判らないが、視界の相違は恐らくそういう事なのだろう。
「………お前にはこの部屋、どう見える?」
ぐる、とシグが首を回す。
「………お前が座ってるところからうしろは真っ赤。それ以外は、青と白」
「そうか。私には、そこの青以外全部真っ白に見えるのだが」
不思議だ、と心にもない事を言う。真っ白なテーブル、真っ白な椅子、真っ白な壁、一つ異彩を放つ青。シグは魔物の言葉を引き継ぐように、ぽつりと言い募る。
「お前のうしろ、こわい。まるで飲み込まれそうな気がして嫌だ」
そう言う割りに、そのオッドアイは恐怖を映している様には見えなかった。それはこれが夢だからか、それとも、魔物自身の問題なのか。どちらにせよ確認する術はない。ただの夢で済ませてしまうにはあまりに退屈なので、シグの言葉を拾って魔物は会話を続ける。
「だから青を塗って、飲み込まれないようにしているのか」
納得した風に言うとシグは無表情に頷いた。魔物が席を立つ。シグの方へ足を向けると、その眉があからさまに顰められた。顔だけ見れば不機嫌なだけに見えるが、よく見るとその瞳には色濃い怯えが伺えた。膨れ上がる加虐心と好奇心に逆らわず、足を進めた。
「ちなみに今、部屋はどのような状態だ?」
かつ、かつ、かつ。意地悪く趣味悪く魔物は徐々に距離を詰める。ペンキにより青に染められた少年は、尚更顔色を悪くするものの、黙って魔物を見上げている。かしゃ、とバケツが微かに音を立てた。かつ、かつ、かつ。
突如シグがバケツを振り上げた。あまりにモーションが少なかったので気付くのが遅れ、魔物の視界は見事に青いペンキで埋め尽くされた。間一髪、マントでぎりぎり避けたのだが、飛沫が顔や髪、眼鏡に少々降ってきた。
驚きと憤怒。何をする、と怒鳴りかけた所、少年がそれを制する形で部屋を見回し、うんうんと頷きながらこう言った。

「真っ青」





青いバラは嘲り笑う




2012.09.25