この涙を君に捧ぐ | ナノ

この涙を君に捧ぐ


 847年。ウォール・ローゼ、南区。とある家庭。

「明日から本部に詰める。家の事は任せるぞ」
「また、調査ですか?」
「それ以外に理由があるか?」

 アリアはいいえ、と首を横に振る。一口大にちぎったパンを口に運びながら、先走る気持ちを抑えた。月に一度しか訪れない絶好の機会を逃すわけにはいかないのだ。

「それから、訓練兵団に入団などしてみろ。その時は」
「しませんよ?最近、そのことばかり気になさっていませんか?」
「……」

 悟られないように。何度も想定していた受け応えだ。焦らなければ、どうということはない。

「アリア」
「はい」
「俺に養われていろ。誰に蔑まされようが、お前は兵士になる必要も開拓地に行く必要もない」
「……はい」

 アリアは今まで、何不自由ない生活を送ってきた。身だしなみ、そして家の掃除に関しては人一倍厳しく育てられたものの、生活の水準は内地と同等かそれ以上であったと思う。食事も衣服も、民衆では手が届かない高級品が比較的多く与えられた。それはこれからもきっと、変わらない。
 ウォール・マリアの陥落以降、12歳を迎えて生産者に回るものは、臆した腰抜けだと、それまでの世論は反転し、揶揄されるようになった。世間体を守るため、あるいは確実な収入を得るために訓練兵を志願する者が多い現在、アリアがしようとしていることは金持ちの道楽だと思われてもおかしくない。

「何か言いたげだな」
「……では、一言だけ」

 それでも、果たさなければならないことがある。守られ、養われているだけの関係にこれ以上甘んじているわけにはいかない。

「無事に戻ってくださいね、お兄様」



#03 家畜の逃走



「あれ超怖くない?」
「最初っから何なんだっつーの、貴様は何者だーって」

 下品な笑い声を発しているのは、どこか着飾った女子ばかりだった。アリアは溜息をつく。部屋の端に位置する席を陣取ったまでは良かったが、集団が近くに来るとは予想していなかったのだ。抜けるに抜け出せない。

「……そーいえば、あんたは出身とか聞かれてなかったね」
「そうそう私、隣にいたんだよ!なんでかなーって思ったけど」
「名前は?どこに住んでたの?」

 教官からの恫喝によってそれまでの自分を一切否定され、真っさらな状態から兵士に適した人材に育つためには、重要な位置づけを占める通過儀礼。どのように答えても、必ず否定が返ってくる。当然、返事すらできない者や、泣き出す者も少なくない。彼女らも例外ではなく、まともな受け応えをした者はこの中にいない。
 その中で、通過儀礼を受ける必要のない者が存在する。2年前の地獄を、その目で見てきた者達だ。

「……アリア・ローゼンタ。シガンシナ出身よ。ローゼ南区の壁沿いの街に移って、お兄様と暮らしていたわ」
「え!シガンシナ!?」
「じゃあその日もいたよね!?」

 好奇の目がいくつも輝いている。
 内地への希望に満ちあふれた者や、世間的な体裁を守るために憲兵団や駐屯兵団を狙ってきた者とは、明らかに違う面構え。彼らは既に巨人を、その恐ろしさを、自分の無力さを、知っているから。
 巨人を、地獄を見たことがない者に、その苦しみを理解しろと言う方が無理な話である。彼らにとって生き残りとはすなわち、英雄と同じだ。

「覚えてない」
「え?」
「勿体ぶらずに教えてよー」

 しかしアリアの場合、少しだけ事情が違った。あの日、何が起きたのか。街を彷徨っていたような気もするし、巨人を見た気もする。でも、何も見ていない気もする。気がついたら両親はいないものとなっていて、代わりに兄ができていた。でも、ずっと兄と二人暮らしだった気もする。それくらいアリアの記憶は曖昧だった。
 兄が唯一教えてくれたのは、アリアの生家がシガンシナ区にあったということ。それだけだ。
 アリアが通過儀礼を受けずにその場を切り抜けたのは、目的意識の違いに他ならないだろう。死んでも果たさなければならない誓い。でも、その日までは死ねない。生きて戦わなければならない。

「……自分の手が及ばない所のことなんて、知らなくていいのよ」



***



 兵士になれるかどうか、一番最初の訓練は適性を測ることだ。
 腰の両側にロープを繋いでぶら下がる。全身に装着した固定ベルトで細かい体重移動を行い、バランスを取る。人類を無理やり三次元に対応させるために作られた立体機動装置を使いこなすには、まずこの適性検査をクリアしなければ話にならないのだ。

「て、適性無しって言われた……」
「さようなら。開拓地で頑張って」

 訓練としては初歩中の初歩だが、これだけで立体機動の素質はある程度測定ができる。バランスを崩す者は兵士への適性が無いとされ、開拓地に送られることになっている。

「……長さが足りないな」
「ふむ、どうしたものか……」

 昨日、夕食を共にした数名を見送った後で、アリアはバランスを取る以前の問題で躓いていた。

「何をしている?」
「ハッ!彼女の腰にロープが届きません!」
「……アリア・ローゼンタ、貴様の身長は?」
「……、134センチであります」

 12歳以上で健康状態が概ね良好ならば、誰でも訓練兵に志願することができる。体格による向き不向きは多少あれど、身長や体重なんて一度飛んでしまえば問題にならない、はずだった。
 平均以下にも限度がある。どこか大人びた風貌に似つかわしくない、低すぎる身長。よく見ると制服のジャケットは肩が落ちている。

「……」

 顔に出す訳にもいかないが、キースは困り果てていた。まさかこうも成長していなかったとは。しかし、思い返してみれば彼女の両親、フォルカーとクシェルは二人ともかなり小柄だった気がする。アリア本人の力が及ばない所で、とんでもない欠点を遺されたものだ。

「踏み台を、用意しろ」

 結果は申し分なかった。調査兵団のサラブレッドへの期待は、当然大きくなる。本人の耳には入れないようにと釘を刺されてさえいなければ、今すぐにでも実戦訓練をさせてみたいところだ。それでなくても今期は素質に恵まれている者が多い。
 次にアリアについて熟慮すべき問題は、立体機動装置の大きさか。正しく装着できればいいが。

「……フォルカー、クシェル。お前達の娘が今日、兵士になった」

 あの日全てを奪われた、いや、失ったと言った方が正しいだろう。両親、両親と共に過ごした家、故郷、そして思い出。聞いた話では、アリアはそれまでのことを何一つとして覚えていなかったらしい。
 ただ、都合がいいこともある。アリアの引き取りに名乗りを挙げた者が周囲に頼み込んだのは、無理に思い出させないことだった。あのような惨劇を覚えさせておくには幼すぎた。身元引受人から何の報告もないと言うことは、現状変わりなしなのだろう。

「……順調に、来られたのかしら」

 訓練場の殺伐とした空気に似つかわしくない、ふわりと優しい風がアリアの髪をさらう。何か口を動かし呟きかけて、やめた。集合だ。
 こめかみがチリッと痛んだが、気がつかなかったことにした。
 

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