この涙を君に捧ぐ
涙の落ちる音が聞こえた。
約束の時刻まで、あと少し。
ごめんね。もう少しだけ待っていて。
すぐに行くから、待っててね。
#01 二千年後の君へ
845年。ウォール・マリア、シガンシナ区。
鐘の音が鳴り響く。ごった返した人の群れの中を、アリアはくぐるように急いでいた。門が開こうとしている。調査兵団が、父と母が帰ってくる。息をはずませ、アリアは群衆の最前列に飛びだした。
「これだけしか帰ってこれなかったのか……」
「今回もひどいな……」
「みんな、食われちまったのか……?」
聞きたくない声が、嫌でも耳に入ってくる。見送った時と人数が違うのは、一目瞭然であった。勇ましい姿はどこにも見えず、悲壮感、あるいは無気力感にも近い何かが、兵士達を包み込んでいた。
「壁の中にいれば平和に暮らせるってのに」
「兵士なんて税の無駄遣いだ」
「これじゃあ俺らの税でヤツらにエサをやって、太らせているようなもんだよな」
外野は外野で、労をねぎらうことをすることもなく好き放題に口を動かしていた。
兵士になるという選択は、現在深刻化している食糧事情から抜け出し、確実な食い扶持を確保できるという利点も大きい。過酷な労働を強いられても得られる富は少なく、兵士になって初めてパンを口にしたという者も少なくない。しかし、パンを食べたいだけならば、なにも調査兵団になる必要などなかった。壁内で兵役に就くことは当然可能で、むしろ志願者はそちらの方が圧倒的に多い。調査兵団はその名の通り、壁外を調査することを生業としている。壁外には、ヤツらがいる。
「アリア!」
「!……パパ、ママ…」
きつく包帯を巻いた腕が、ぎこちなく娘を抱きしめた。噎せ返りそうな返り血のにおいがアリアの鼻をつく。父は今回、どれだけの血を浴び、流したのだろう。思考を巡らせるだけでは、想像なんてできやしなかった。
調査兵団の班長を務める父・フォルカーと、看護兵である母・クシェル。帰ってくるだけで一人前とされる調査兵団の中でも、二人は何度も壁外調査に参加している精鋭だ。娘であるアリアは両親を誇りに思う反面、寂しさを拭えなかった。だから、今は感情を隠さずに泣くのだ。嬉しいからこそ、泣くのだ。
「お帰りなさい」
***
直帰を許可されたフォルカーとクシェルは、アリアの手を引きながら家路につく。その顔は疲弊し、ひどく憔悴していた。アリアは努めて、明るい話を提供し続ける。仕事のことには触れない。5歳のときに祖母が亡くなってから、壁外調査中を一人で過ごすようになったアリアが、5年かけて学んだ最善策だ。
「そういえばアリア、とっても強い新人くんがやって来たのよ」
「強い人?」
「アイツはすごかったな。パパも、彼がいなかったらどうなっていたか……」
ただし、話を振られた時にはしっかり聞く。それだけで両親はいつも嬉しそうだった。
普通の家族であれば、と憧れたことは何度もある。母の料理を食べて、父の休日には遊んでもらう。アリアにとっての理想の家族像は、父や母の前で口に出したことがない。悲しくも理解していた。理解しなければならなかった。
「あのねママ、アリアね……」
轟音と、強い揺れ。地震だろうか。頭上に落ちる危険物がないことを確認したフォルカーは、二人を抱きしめ地に伏せた。何も落ちてこないことを確認して、顔を上げる。特に建物が崩れた様子もない。立ち上がると、フォルカーは住民が高い位置を指差して何かを凝視している様子を見つけた。なんだろう、この嫌な胸騒ぎは。
「クシェル、アリアを連れて先に……」
「私も行きます!アリア、一人で帰れるわね?」
返事をする間は与えられなかった。かろうじて頷いた時には、両親はもう、背を向けて走り去っていた。自由の翼が、少しだけ憎い。自由の翼と呼ばれる調査兵団の紋章は、いつだってアリアをひとりぼっちにした。壁外調査時に留まらず、熱心な両親は少しでも己の技術を磨くため、毎日早朝から遅くまで訓練に励んでいた。誇りでもあり、悲しみの象徴でもある自由の翼。
これのせいで、また、ひとりぼっちにされるなんて。
「……嘘、だろ…」
「あの壁は、50メートル、だぞ……」
そんな声が耳に届いた時には、もう遅かった。どうして両親に、行かないでの一言が出なかったのだろう。
「ヤツだ……。巨人だ」
ひとりぼっちになるまで、あと、