ランナーズ・ハイ | ナノ

ランナーズ・ハイ


「今日も雨か」

 普段は集会くらいにしか使われない広間の端。障子を開け放して空を仰ぎながら、鬼兵隊総督・高杉晋助は呟く。季節はとうに文月へと変わったというのに、今年の前線はどういうわけか粘り強い。雨だけならばまだいい。趣もある。いかんせん、赦せないのは湿気だ。どうにもこればかりは好かない。

「こうもジメジメした日が続くと、気持ちまで陰気くさくなっていけねーや。なァ?」

 自分のつい足先、畳に横たわる少女・兵藤椿鬼に声を掛ける。先ほどから一寸たりとも動こうとしない。声の代わりである帳面も空気中の水分をひたすら吸って、紙質が変化しているようだ。だらりと四肢を投げ出して寝転がる姿は、普段のような気品なぞどこにも見られない。

「ジメジメジメジメ……、晋助様、私の頭の中にまでカビ生えそうっス」
「とうに生えてるだろうよ」

 そもそも空調設備が故障するなどあっていいことだろうか。この時期に限って。冷房が必要だとはあまり思わない。だが、せめて除湿機能は保っておかねばならないのではないか。また子は湿度計を見て愕然とした。湿度九割五分だなんて、ほとんど水の中に近いのではと、考えのみが巡る。

「もう何日だ?最後にお天道様拝んでから」
「5日目でござるよ。いい加減、股からキノコが生えかねん」
「とうに生えてるだろうよ」

 ようやく椿鬼は顔を上げた。会話の内容などこればかりも理解してはいないが、普段の冷静な二人とかけ離れていることは一目瞭然だ。証拠に、また子の顔が引き攣っている。アクセス数とやらが激減する原因がここにある、漠然とそんなことをひとり悟った。格式高き鬼兵隊に何をさせようと言うのか。ここらで仕留めるべきではないだろうか、元凶を。

「幕府に動きはねーし、雨降ってっから外出る気もしねーし、キセルは点かねーし、天人くせーし、隊員の足もくせーし、武市だし」
「武市だしとは何事ですか、晋助殿。足の裏と比較することだけはお止めいただきたい」

 ああ、仕留めておくべきだった。頭にカビやらキノコやらが生えてるのは、間違いなく奴だ。間違っても椿鬼の敬愛する晋助は数行上のような言葉を発するはずがない。いくら名前変換小説と言えども限度というものがある。これを読んだ初心者の方に一生のトラウマを引きずらせるような真似をさせるわけにはいくまい。よし、殺ろう。ただ、どうやって液晶の先に行こう?そんな方法があれば誰もがさっさと行使しているはずだ。ああ、そうか。無理やり話を切り替えてしまえばいいのか。





“以上、アバンでした。本篇はじまります”
「……誰に話してんだよおめーは」
「アバンじゃないっスよー。これ立派な本篇っスよー」
「番外篇とも言うべきか」
「おめーらも誰に話してんだよ」

 失敗した。もういい。このまま続いてしまえ。傍観に徹してやる。

「私、どうにも嫌いなんスよねー。“梅雨”って名前自体どうなんでしょ?」
「致し方ありません、“つゆ”ですから」
「だが“つゆ”の響きは確かに気が滅入るでござる。別の名前で呼ぶのはいかがか」

 梅雨談義をやめない三人を横目に、晋助は炭火を起こし始めた。どうしてもキセルを吸いたいらしい。椿鬼は興味本位で刻み煙草に触れた。なるほど、火が点かないのも納得だ。水分を吸いすぎてとても炭火では燻りはしないだろう。マッチを使わないのかと問えば、それは外出時の荒療治だと笑われた。

「ハッピーバースディつーゆー、とか。あ、お通殿の新曲にこれ使おう」
「長くて言いづらいでしょう。“女の子の日”が良いかと」
「武市先輩が言うとそれ、ただの通学時間っス。マジやめてくださいよ変態」

 炭もいくらか水分を吸っているらしく、なかなか燃え始めない。手つきを覚えようとしているのか、じっと覗く二つの目がたまらなく愛らしいと思えた。これだから厭きないのだ、何をしていても。自分の知らない未知は、なんであろうと楽しげに吸収する。椿鬼は、心から無邪気だ。

「間を取って“インディペンデンスディ”、いいでござろう」
「どこが間ですか、少女の奥ゆかしさの欠片もありはしない」
「“女の子の日”って響きに奥ゆかしさもクソもなかったっス」
「以後、“梅雨”のことはインディペンデンスディと呼ぶように。いっそ隊則にでも」

 かと思えば、この三人はとかくやかましい。人がせっかく楽しもうというときに、なんだこのバカ丸出しの会話は。椿鬼も椿鬼で、会話帳に“インディペンデンスディ”などとさっそく書き込んでいる。いくら名前変換小説と言えども限度というものがある。武市はいい、問題は万斉だ。これを読んでいる女どもに一生のトラウマを引きずらせるような真似をさせるわけにはいくまい。よし、壊そう。場面を切り替えてしまえば済む。

「あれ?晋助様は」
“おでかけ”
「こんな……インディペンデンスディ、に、どちらへ」
「まったく梅雨は必要ないでござるな」
「何もする気にならないっス」
「……梅雨、じゃねーよ、散々人に八つ当たりしやがって」
「椿鬼、晋助のことは任せるでござる」





高い傘ほど電車に置き忘れられてる





 雨脚は酷くなる一方。傘は外出後早々に壊れて、なんの役にも立たなかった。肩に溜まった水滴を払い落しながら、晋助は空を仰ぐ。古びた神社の軒下。そういえばあの花を見つけたのも、雨の降る廃屋だった。花が咲くにはあまりに不憫で寂れた場所。つい目に留まった。つい欲しいと手を伸ばした。こうも根差すとは想定外で。

「……そんなに、渇いてんのか?」

 足元に跳ねる泥を構いもせず、こちらに走ってくる小さな影。赤い椿が、嵐の真昼にもよく映える。これだけ雨がひどいというのに、椿鬼の傘は開かれていなかった。目が合う。ふわり、湿気の割合がどれだけ大きくなろうと、あの笑顔は晴天に浮かぶ綿雲のように軽い。

「雨水にまで潤いを求めてんのか?獣でも水やるくらいの能は持ち合わせてらァ」

 珍しく懐に入っていた手ぬぐいを広げ、晋助は椿鬼の顔にまでついた泥水を拭う。ずぶ濡れ以外の何ものでもない。触れた鼻先は冷えきっている。随分な距離であったろうに、ずっと走りまわっていたらしい。乱れた呼吸を整えながら、椿鬼は笑っていた。

「……で? てめーの傘も……、いや、いい」

 椿鬼が抱えていた傘を少々強引に預かり、開く。傘紙は破れ、骨は折れ、支柱は曲がっていた。傘と椿鬼を交互に見やると、ばつが悪そうに目を逸らされる。椿鬼の視線の先には、晋助が持っていたであろう無残な傘が横たわっていた。二人の視線が再びかち合う。

“あまやどり?”
「いや?帰るぜ。いい傘、届けてもらったことだしなァ」

 先に笑いを漏らしたのは、晋助だった。邪気の欠片も、いつもの歪みもない少年のような笑顔。確認できたのはほんの一瞬だったが、椿鬼の目にはしかと焼きついた。彼も笑う、そんな当然のことが嬉しかった。自分にだけ向けてくれた特別ななにかのようで、堪らなく嬉しかった。彼が、晋助が本心というものを自ら壊しているようで、哀しかった。





 歩くたび、足並みを合わせるたび、雨は穏やかになっていった。それでも曇天は口を閉ざしたまま、太陽を受け入れようとはしない。

「インデ、なんだったかな。気持ちまで陰気くさくなっていけねーや。なァ?」

 開いたひとつの、おんぼろ傘の下に二つの影。いつも背を追う小さな影が今日ばかりは前に立ち、両手を高く掲げて傘を支えている。その後ろに篝火が、少々身を屈めてついて行く。

“捨てたもんじゃ、ない”

 帰路も中程に差し掛かったとき、傘の持ち手は交代する。羽織る上着を広げ、晋助は椿鬼をいざなった。大きめの黒い袢纏は二人を包み込む。二つの影は、ひとつになった。

「……そーかい」

 傘に当たる雨の音が次第に小さくなる。椿鬼は立ち止まり、晋助の顔を仰ぎ見た。そこには太陽が、確かにあった。長い梅雨がきっと終わる。彼の闇もまた今日のように、いつか必ず晴れるのだと心から強く願った。
 

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