ランナーズ・ハイ | ナノ

ランナーズ・ハイ


ふと顔を上げると、見慣れた彼がいた。

「よォ、てめーだけか?」

 多くの人々が行き交う大きな橋の上。笠こそかぶっているものの、どこまで無防備なのだろう。晋助の背後に設置されている瓦版には「テロリスト注意」の文字と共に、でかでかと彼の人相書きが描かれていた。

「人相書きなんざ似ても似つきゃしねーよ」

 声を押し殺すように喉で笑いながら、晋助は煙管を吹かす。粋というやつだ。様になりすぎていて見惚れ、慌てて目を逸らした。ふと河原に目が留まる。

「祭りか……。随分昔に感じるが、実はそう経ってないんだろうな」

 祭り。それはとっても素敵な響きでもあり、ただただ不安だった頃を思いだす響きでもある。たった数ヶ月前のことなのに。

「来なァ椿鬼、りんご飴買ってやる」

 自分が見たいだけだろうなんて、言わなかった。一切の計画をしていない突発的な出来事。つまりそれは、晋助が純粋に祭りを楽しみたいと思っているからだ。安心できる。嬉しかった。
 いつかの祭りとは、違うから。





花火の夜の、小さな嘘





 見失ってしまった。またやってしまった。椿鬼は深く溜息をつく。万斉に再三吹きこまれていたというのに。

 一、晋助は祭り狂であり、目を離せばすぐに見失うであろうこと。
 一、#名前#より高くとも晋助は割合小柄であるので、見失えば捜すのは骨だということ。

 ましてやこの人の多さ。数日前の江戸大捜索よりも捜すのは困難だろう。当然、帰り道を覚える余裕などあるはずもない。私服警官も多く潜んでいるであろうこの日に、人に尋ねて回るなど野暮な真似は死んでもできない。地道に捜すしかなくなってしまった。

「何寝ボケたこと言ってんだ!この会場のどこかに高杉の奴がひそんでいるかもしれねーんだぜ」

 肩が跳ねる。声のする方を見ると、いつぞやの黒い集団が散らばっていた。あの時、自分を真っ先にしょっぴこうとしていた黒髪で瞳孔の開いたヘビースモーカーが、今の声の主らしい。櫓の傍らで休むふりをしながら聞き耳を立てる。

「奴の手にかかって一体どれだけ幕吏がやられたと思ってんだ」
「最近起こった過激なテロのほぼ全てに、奴が関わっていると言われてんだぞ」
「攘夷だなんだという思想とは奴は無縁」
「まるで騒ぎを起こすこと自体を楽しんでるようだ」

 刀にかかる手を抑止することが、あとどれくらい保つだろう。敵が、自分の目の前で、自分の命の恩人である晋助を侮辱している。
 何がわかると言うのだと思いながら、違った意味合いで冷静になれた気がする。確かに真選組は晋助のことを何も知らない。では、僕は? 僕は晋助の何を知っている? 何も知らない。世間を賑わす攘夷志士、それ以外のことは何も知らない。真選組と大差がない。どれだけ近くにいようと、関係ない……?
 気づけば走り出していた。彼の背中を求めて。
 今日ほど声を失くしたことを、恨んだ日はない。己の未熟さと、弱さを、恨んだ日はない。とにかく走れ、足を動かすしか、今は他になにもない。





「あっさりと達成されちまうものほど、興醒めする話はねェ。壊し甲斐がある方が、楽しめそうじゃねーか。少なくと今は、な。……お前は、どう思う?」

 僕は何も答えなかった。意思表示すらしなかった。晋助はキセルを咥えると、空いた右手を僕の頭に置く。それでも僕は微動だにしなかった。

「……もう、故郷にお帰りか?」

 僕は首を縦に振る。嘘をついた。耳によみがえる約束、というよりは契約か。
『お前が全てを思いだしたその日に、解放してやる』
 僕は今日、このまま鬼兵隊に居ていいのかがわからなくなった。晋助の背を守る代わりに、僕は鬼兵隊に置いてもらうという約束だった。背を守るどころかいつも見失って、ついて行くことすらできなくて、そして僕は、何も知らない。こんな居心地のいい場所に、僕は相応しくない。いつだってそうしてきたから、僕は独りぼっちだったのだろう。元に戻るだけだ、何も恐れることはない。

「お前は、詐欺師にゃなれねー性質だな……」

 晋助は喉を鳴らして小さく笑う。そして僕の両肩に手を置き、目を覗きこんできた。見透かされている。直感的にそう感じ取る。

「犬死にしたくなけりゃ逃げようなんざ考えねェこった。記憶が戻るか、せめて俺を騙せるくらいの嘘つけるようになるまでは、手放しやしねーよ」

 優しい手だった。髪を梳く彼の手は、少しだけ冷たくて。誰よりも温かい手だった。





 僕は知っている。今なら胸を張ってそう言える。高杉晋助は誰よりも優しくて、誰よりも純粋で、そして誰よりも繊細な温かさを持っている。
 誰も知らない顔を、知っているから。
 今になって思えば、なにをくだらないことで悩んでいたのだろう。出会って数日で何を知れると言うのだろう。晋助だって僕のことは何も知らなかったはずだ。

「……りんご飴、そんなに嬉しかったか?」

 僕のニヤケ面を覗きこむ晋助の表情は穏やかで、どこか楽しげだった。これも、他の誰もが知らない彼の顔。それだけで充分嬉しかった。

「変な奴だな、帰るぜ」

 笠を少しだけ上げて、僕の目を覗きこんで、そうして歩きだす晋助。気遣ってくれているのだと思う瞬間なんて、こんなものなのだろう。たったそれだけのことが、嬉しくてたまらなかった。
 

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