ランナーズ・ハイ | ナノ

ランナーズ・ハイ


「まさかこうもあっさりと。お前さん本当に鬼兵隊の宝物か?」
「意外だったね、高杉がキミを容易く貸してくれるなんて」

 江戸は遠かった。起きたら江戸、なんて嘘だった。むしろ起きてからのほうが悪夢だ。
 乱闘に次ぐ乱闘で散々破壊された春雨の母船を修理・点検するという名目で鬼兵隊も駆り出された。椿鬼は鬼兵隊側の責任者、いわゆる現場監督を晋助から一任された。そこまではいい。それだけならなんだか恰好いい気もする。問題は春雨側の責任者が神威であることだ。知っていて抜擢したのであれば、ただの嫌がらせとしか思えない、それも極めて悪質な。

「思い返してみれば初めて会った時からキミの声を聞いたことがない。俺ってそんなに嫌われてるのかな?」
「え、嬢ちゃんそんなに寡黙なの? 女って奴ァとにかく喋るのがストレス発散かと思ってたんだがねェ」

 一概には言えないだろうが、阿伏兎の言うことは間違ってないと椿鬼も思う。また子を見ていればよくわかる。彼女にとってのストレス発散である愚痴を聞いているのは面白いから、別段苦になるわけでもないのだが。本物の男からすればきついものがあるのかもしれない。
 椿鬼は懐から小さな手帖と、随分古びたペンを取り出す。

“かもくじゃない しゃべる、こともないけど”

 急いで書き揃えた字はお世辞にも達筆とは程遠かった。しかし神威も阿伏兎も、反応は示したものの大して驚くこともなかった。彼ら夜兎族は宇宙の中でも名の知れた戦闘民族。腕が千切れた、眼球を抉られたなんて程度の怪我の話は日常茶飯事だ。椿鬼の首に巻かれた包帯を見る限り、彼女も何らかの戦いで喉を潰されたのだろう。

「思った通り、キミも面白いや」
「まーた始まりやがった……。頼むからこの嬢ちゃんに手ぇ出そうなんざ考えんなよ? 俺ァ御免だ、鬼兵隊を敵に回すのだけァ」
「教えてくれない? キミと鬼兵隊が今までどうしてきたのかを」
「うぉーい団長、俺の話聞いてたかー?」

 神威に苦笑しながらも適当な場所に腰を落ち着け、椿鬼は思いだしながら書き始める。
 打上花火の夜。ずぶ濡れで泥まみれな最悪の出会い。機械仕掛けの刀がもたらした悲劇。真選組への潜入。そして、名前をもらったあの日。季節を一周したわけでもないのに、到底語り尽くせそうにない日々が思い浮かんでは過ぎていく。

 ぼくは、あの日、椿鬼になった。

 鬼兵隊の、兵藤椿鬼になった。





片手に足る重み





 雨と、土のにおいがする。
 目が覚めると、同時に痛みまで覚醒した。痛いついでにと、軋む背骨を折り曲げ体を無理やり起こしてみる。軽く首を左右に振り、辺りを見渡しても状況は把握できなかった。
 僕は、一体どうしていたのだろうか。
 そう、確か、競争していたのだ。山の斜面を転がるように駆け降りて、そう、一刻も早く辿り着きたい一心で。一体どこへ? 知らない。競争? 何故だろう。誰と? そもそも相手などいたのだろうか。
 額を拭う。その手を見て少なからず驚愕した。
 真っ赤だ。視線を落とすと、今まで僕が頭を置いていた場所は、泥に血が混じり不気味な色に染まっていた。どうやら額が割れてしまったらしい。
 動かないほうが身のためだろうか。助けが来るまで、ここでじっとしているほうが良いのだろうか。そもそも助けなど来るとは思えないが。せめてこの降りしきる雨を凌げる場所へ移動すべきだろうか。考えはいくつも浮かぶものの、判断はできない。
 何度か頬を打ち、帯に挟んでいた手ぬぐいを力いっぱい絞って水気を払い、頭に巻いた。これで死ななければ儲けものだと思う。
 ここでようやく立ち上がる気になった。
 辺りを見回す。どうやらここは寺らしい。御堂の軒下ならば雨宿りしても差支えはないだろう。賽銭するだけの金くらいは持っている。できる限り頭を揺らさないようにゆっくりと歩を進め、たどり着くと腰を下ろした。
 雨は先ほどより勢いを増して、ひたすらに地面を穿ち続ける。貧血気味なのか、それとも単に体力がすり減ったのか、どうしようもなく眠い。雨が止むまで眠っていても罰は当たるまい。軽く目を閉じる。
 次に目覚めれば、少なくとも落ち着けばきっと、絡まってしまった記憶も解けるはずだ。





「なんでここに人間がいやがんだァ?」
「おい見ろ! 帯刀してやがるぜ!!」
「今時哀れな侍まがいのガキか。天然記念物もんだな」

 頭上から注がれる、皮肉の込められた話口調。寺の僧侶ではない。
 しかし今の問いはどういう意味だろう。人間がどうのこうの、などと。侍まがいという言葉もいかがなものか。斬り捨てられても文句は言えまい。武士を侮辱するなど、なんと肝の据わった連中であろう。刀に手をかけ、目を開けた。
 後悔した。
 ありえない。妖怪かなにか、少なくともこの世の生き物ではない。動物の頭を持ち二足歩行をしてみせ、言語も人間の言葉だなんて。なんて性質の悪い夢だろうか。ましてやその妖怪もどき達が自分に対して刀や槍を向けているなど。
 割れた額が疼く。夢で痛みを感じるなんて聞いたことがない。
 ようやく頭が追いついた。どうやら僕は、通常では考えも及ばない、とんでもないことになっているらしい。ああ、もしかしたら僕は既に死んでいるのではないだろうか。なんて頭の悪い冗談が浮かんですぐ消えた。

「どうせ攘夷浪士の端くれだろーよ、殺れ」

 一斉に向かってくる化け物共。刀を抜きたいのに、手すら動かせない。まともに刀を握れない。立てない。声の一つも出やしない。助けも呼べない。そもそも助けなど来るとは思えない。額が割れるように痛い。もう割れていた。心臓は不愉快なほど大きく速く鳴る。うるさい。痛い。怖い。怖い。怖い怖い怖い!
 夢ならば早く覚めてくれ! 夢であろうとこんな化け物に殺されたくなんかない!! 覚めろ、覚めろ覚めてくれ! 死んでいるなら余計に殺されたくなどない。死を受け入れてもいいから殺さないでくれ!! 手が震える、涙で視界が霞む。怖い。嫌だ。嫌だ。誰か、誰か、誰か誰か誰か!

 助けて、たすけ、て





「なんでここに天人がいやがんだァ?」





 断末魔は、僕のものじゃない。その叫び声は確かに、化け物共から発せられている。恐る恐る目を開ける。
 息を呑んだ。確かに取り囲まれていたのに、化け物共は全員、血溜まりの中に突っ伏して動かない。代わりに、一人の男が薄ら笑いを浮かべてこちらを見下ろしている。その眼は片方しかこちらに見えていないのに、何故か両の瞳が自分を捉えて離さないような気がした。左眼に包帯をした、濃い紫色と蝶の模様が印象的な着流し姿の男。

「……あ……、あの……」
「どう見ても帯刀許可を得てる身分たァ思えねェ、だが浪士でもねーな。何者か知らんが、ガキはさっさと家に帰んなァ。二度と刀なんかぶら下げて歩くんじゃねーよ」

 男は剣を一振りし、血を飛ばす。
 動作の一つ一つ、そして圧倒的な存在感がなんとも言えない美しさだった。男に対して美しいなんて言葉は相応しくないのかもしれないが、なんというか彼は妖しく美しい。
 僕はいつの間にか取りこぼしていた刀を未だに震える手で受け取る。彼は火種も無いというのに煙管を咥え、何やらさっきの化け物の死骸を物色している。彼は小さな箱のようなものを手に取ると、それは呪術かなにかか先から突然青い火が点いた。そのまま煙管を燻らせ吹かすと、男は煙越しにこちらをじっと見ている。

「国が没落して姫さんが男の恰好で逃げる、そんなおとぎ話なんざ山のようにあるが……、てめーはその口かい?」
「え……」
「着てるもの、言葉の抑揚はどうにも田舎侍。だが芋がそんな綺麗な顔してるわけあるめーよ」
「……気づいた者ら、誰もおらんかったのに」

 これがもし夢で、彼が夢の中の人ならば、少し惜しいと思った。
 僕が女であることは何があっても隠し通さねばならない。だけど、気づいてもらえる程度には留まっていたい。僕は僕である以前に、私だから。これは僕が求めた願望が生み出した夢なのだろうか。男の存在は、僕の願望なのではないか。そこまで考えてやめた。忘れていた額の痛みが少しだけ戻ってきた。

「お前、名は?」
「僕は……、兵藤、兵藤……?」
「……あ?」
「助けていただいた御方に名乗ることもままならんこと、情けなく思います」
「頭でもぶつけたってところか。兵藤某、不憫な話だねェ」

 男は煙管を未だ降り続く雨にかざし火を消した。使い方は間違っているのであろうが、よくわからない。
 何故、名前を思いだせないのだろう。自分が女であることや、武士の身分を持つこと、母がいなかったことは覚えている。なのに名前や生まれた場所、旅の目的、今まで生きてきた道、それらは何一つとして覚えていなかった。願望云々の前に、僕は大切であろうことを全て失っている。眩暈がしたのは血を流し過ぎたせいだと信じたい。

「あなたは……、何とお呼びすれば」

 事実から目を背けたい僕は、雨粒の落ちる先を見つめている彼に声をかけた。男は少し気だるそうに顔を上げ、僕の目をじっと見る。小さく口角を上げると、彼は立ちあがった。

「高杉、し……」





 何が起きてどうなったのか、そんなことを考えてる時間は一瞬たりともなかった。彼が少しばかり目を見開き、そして、僕の視界は真っ赤になる。
 彼の背後、さっきの化け物が起き上がって、刀を振り上げた。僕は、普段の僕からは想像もつかない速さで刀を抜き、確かに斬った。手応えがあった。同時に、確かに斬られた。息が、息が上手く、吸えない。
 タカスギ殿は僕が倒れる前に抱き留めてくれた。その顔は、先ほどまでの自信を裏付ける表情をしていない。冷静なのに、少し焦りの色が見える。

「……斬られたのは喉か。死にたくなけりゃァちと我慢しな」

 彼は僕を抱きかかえると、顔色一つ変えずに静かに刀を抜いた。化け物共の仲間と思しき輩が僕らの周りを囲んでいる。僕を抱えたまま、敵を薙ぎ倒し走るタカスギ殿。すごい。こんな人が、こんな人間がいるなんて。
 次々に死んでいく化け物の屍を飛び越えながら、彼は言った。

「なァ兵藤よ。それだけ腕があって肝据わってんなら……、これから俺の背を守ってみねーか? お前が全てを思いだしたその日に、解放してやる」

 今度は、僕の目が見開かれる番だった。突然の申し出。息は相変わらずまともに吸えない。

「俺ァ、この腐った世界をブッ壊す。だが、今みてーに背中狙われりゃァお陀仏だ。どうせ記憶も行き場所もねェなら、どうだい?」

 腐った世界をブッ壊す、か。とんでもない話なのに、何故か僕には懐かしい響きだった。いつ、どこで聞いたのかもわからない。誰が話していたのかも思いだせない。だけど、僕の目指そうとしていたものは、もしかして、こんなにも近い?
 僕は、朦朧としながらも、彼の目を見つめ続けた。必死に唇を動かして、どうしても伝えたかった。えぐれた喉では潰れた音しか出ないというのに、それでも自分の声で確かに伝えたかったのだ。つれていって、と。


「……酔狂なヤローだねェ。気に入った」

 遠ざかる意識の中で、僕は彼の、素直な笑顔を見たんだ。





「それまで、てめーの名前は」
 

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