手放すか閉じ込めるか。俺と彼女の間に横たわる問題は様々であるはずなのに、いつだって手立てはその二つしか存在しなかった。それも、とびきり悲しい決められた結末を引き延ばすという、後ろ向きの理由によって。そのせいか、俺たちは16年間ただの一度もそのどちらかを選べたことはなかった。俺たちは何もかもを自分たちから遠ざけるために、でたらめな回り道を選ぶことばかりを繰り返している。ただの一度も、大切なことを選べないままに。

「今日は名字、休みだったぞ」
 玄関先で待っているはずだった血の気の薄いその顔が珍しく見当たらなかったので、昼休みに名字を訪ねるとその姿はなく、名字と同じクラスの田中に訊ねると案の定な答えが返ってきた。
「そっか、ありがとな」
「名字たまに休むよな、身体弱いのか?」
「そんなんじゃないよ。全然心配することじゃないから」
 どことなく心配の色を滲ませた田中に笑って手を振り、適当な話題に切り替える。田中は面倒見もよくて、本当にいいやつだ。ただのクラスメイトにそんな心配まで出来る。それも、恐らく一度も会話をしたことすらないのに。俺が名字が休みの度に逐一訊きに行く影響を考慮しても、ただそれだけで赤の他人を心配できる田中を、俺は羨ましく思う。もし田中が俺の代わりに名字の傍に居てくれたなら、きっと俺たちとは全く別の結末を用意できたのだろう、と。
「あ、俺今日部活出れないや」
「サボりじゃねえだろーな。また来なくなったら承知しねえかんな」
「違うって。それにちゃんと最近は来てるだろ」
「わーってるって。まあ大地先輩には言っとくわ」
 もう一度田中に手を振り、教室を出る。自分の机に戻り、手早く荷物をまとめエナメル鞄を引っさげて、担任が居座っているであろう職員室に足を向けた。
「おー縁下か。どうした?」
 箸を突っ込んでいた弁当から顔を上げた中年は気だるそうに顔を上げる。
「今日学校早退します」
 これ、ともう既に必要な部分には書き込みが済んだ早退届を差し出す。しげしげとそれを見つめた後担任は、ん、と一言だけで了承の意を示した。
「帰るとき気をつけてな」
 はい、と頷くと、担任はまた、ん、とだけ言って弁当に顔を戻した。どちらも濁ったような声だった。

 名字は時折全てを投げ出すことがあった。けれど名字は誰にもばれないようにひっそりと秘儀のようにそれを執り行うので、恐らくそれに気がついているのは俺ただ一人だった。それほどまでに名字はそれを綺麗に隠してしまっていた。誰にも知られたくない、けど縁下にだけは私のこういうことをわかっててほしくて、知っててほしくて。そう名字が言ったのは、一体いつのことだったのだろうか。名字は泣いていた気もするし、笑っていた気もする。または、そのどちらでもあったのかもしれない。名字はその発言の通り、矛盾したことをよくした。それはきっと名字自身が矛盾してしまっているからだと俺は考えていた。名字はいつだって、矛盾している。だからきっと、こんな風に泣きそうになりながら笑えてしまえるんだ。
「美術館に、入りたくて」
 海を臨む小高い丘の上に立てられた美術館に名字はいた。正確には、その入り口の横に設置されたベンチにぐったりと力なく座っていた。現れた俺に、名字は顔も上げずに独り言のようにそう言った。
「券も、買ったの」
 名字の右手には切り取り線の先がまだついたままの入場チケットとパンフレットが握られている。随分長い間握っていたのか、よれてしまっている。名字はそれを一瞥して、目の前に広がる海を見た。満潮が近いのか船付け場の目一杯のところまでその身を打ちつけている。
「そんなの買わなくても、受付の人、入れてくれるだろ」
「でも。買わなきゃいけない、そんな気がして」
 力なくそう言う名字が握っているチケットは名字の母親の美術館のものだった。

 名字は時折全てを投げ出すことがあった。けれど名字は誰にもばれないようにひっそりと秘儀のようにそれを執り行うので、恐らくそれに気がついているのは俺ただ一人であり、彼女の両親はそれに気付く由もなかった。特に、母親に関しては。
 名字の母親は海外を拠点に活動する著名な芸術家で、名字のその息を潜めた特異性は、小さな頃から世界を飛び回る母親の仕事の犠牲として常に切り捨てられてきたが故の産物だった。
「買わないとあの人に、なんだか悪い気がして」
 名字の握っているパンフレットには彼女の母親と作品の一覧の写真が記載されている。その笑顔も、幻想的な作品も、名字の手元にあるけれど、決して名字には向けられていない。その矛盾が、名字をこんなにも苦しめている。苦しめてしまっている。
「学校、サボったの?」
「昼までは出た」
「どっちみちサボったんじゃない」
「名字のせいだろ」
「美術館に、作品見に来たかったの。母親の作品見に行くくらい、別に許されるでしょ」
 強がるように名字は言った。そして俺は名字の手が力強くパンフレットの端を握ったことを見殺しにした。手放すか閉じ込めるか。俺たちの手立てはその二つしかない。それ以外の道を、持っていない。
「隣座っていい?」
 そう尋ねると名字は、静かに頷いた。
 葉の合間に隠れる妖精を模す、細やかな細工を施されたアクリル棒の写真が名字の指の合間から覗けている。幻想的だ。夢のようだ。名字の母が求めた賛辞は数限りない。そして彼女は求めた分だけそれを与えられた。けれどその言葉の中に名字の求めたものはない。ただそれだけが、欠落している。
「わたしこれに負けちゃってるのよね」
 俺の視線を拾った名字が目だけで写真を指差して言う。その視線には全てを諦めた、淡い夜の淵のような色が滲んでいる。
「無機物からあの人の愛情を勝ち得なかった」
 生きてる価値見失っちゃうよね、と名字は笑う。淡い夜の淵で名字は溺れていた。必死に掴まるべきものを求めてもがいている。けれどそれは最初からないはずのものだった。
 長い睫がふるりと震える。それに縁取られた美しい双眸はきらきらと光っている。名字は必死にそれを堪えている。こぼれだすことを、抑えている。それは名字の母が作る偽物めいた幻想よりずっと美しかった。それを彼女も彼女の母親も知らないだろう。
 もし、もしも名字の母親がそのことを知っていて、もしも俺が田中のようであれたなら、何かがきっともっと違っていた。
「今日は来てくれてありがとね」
 名字は望む言葉をきっと浴びるように手にしていたし、俺はもっと名字に望む言葉をかけてやれていた。
「いまさらだろ」
 けれど、もし、に関する話は結局のところ反実仮想、夢物語しか過ぎず、名字は実の母親に見向きもされないし、俺は面倒見のいい田中龍之介ではなく縁下力という長年目の前に横たわる問題すらをもどうすることも出来ない人間で、俺が名字の望む言葉をかけることが許されたとしても、名字の望むのは母親からのものであり、決して俺からのそれではない。
「本当に、嬉しかった。私、縁下が居るから泣かないですむ。縁下が居るから、私、ずっと」
「もう、いいから」
 言葉の途中で遮る俺に、ごめん、でもどうしても言っておきたくて。と名字はほとんど囁くように言った。もしくは祈るような言い方だった
「俺、それだけで十分だから」
 高望みはしない。好きだなんて言えなくていい。そんな言葉、名字が望まなければそこに意味なんてない。
「それだけで、俺、十分だから」
 だからせめて名字の涙が外側にこぼれないことを、彼女のそれが彼女の望むままに永遠に閉じ込められていることを切に願った。
 結末はきっとまだ、遠いはずだ。

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