「え、名字さんてほんとにノヤと付き合ってんの」
 何度も投げかけられた言葉に、何度も頷く。飽きるほど繰り返されたはずの行為なのに、私はいつも決まって心の底から居心地悪い曖昧な笑みを浮かべる。
「あーでもお互い補いあってる感じでいんじゃない?」
 お決まりの言葉にも、俯いてしまう。何度重ねたって慣れることなんてないだろう。私はその言葉の外に滲んでいるものを嫌というほど知っている。
「西谷と名字はあわないだろ」
 そして私にはそんな疑惑をはねのける自信が、ない。

「え、名字さんてほんとにノヤと付き合ってんの」
 西谷くんの部活が終わるのを教室で待っていると、西谷くんの友達らしい男子たちに机を囲まれた。
「う、うん」
 私の曖昧な返事に男子たちはどっちだよー、と笑った。この類の話題で話しかけられるようなことは今まで何度もあったけれど、西谷くん以外の男子とはあまり喋らないので、そんな笑いにすら慣れない。悪意はないとわかっていても、男子のそれと女子のそれはあまりにも性質が違う。
「おいお前ら! 名字に余計なこと言ってんじゃねえだろうな!」
 部活が終わったのか、西谷くんがひょっこりと教室の入り口から半身だけ出し、大声を出した。今度は、彼氏来た! と他の男子たちは西谷くんを囲み騒ぎだす。おそらく、私に関する何かしらの話題で盛り上がっているのだろう。それを面倒くさそうに振り払いながら西谷くんは照れと不機嫌を器用に混ぜた声色ではねのける。
「うるせー、今から俺帰るんだよ!」
 名字待たせてっし。そんな言葉にも他の男子たちは食らいつき、ヒューヒューとお決まりの口笛を吹いた。
「名字、こんな馬鹿共放っといて帰ろうぜ」
 ふん、と強気に鼻を鳴らして西谷くんは私の机の横に立つ。
「あ、うん。ちょっと、待って」
 慌てて荷物をまとめて、鞄に詰め込んでいく。西谷くんは先ほどとは違った優しい声で急がなくていいかんな、と私にだけ聞こえる声量で呟いた。私もそれに、気付かれないようにそっと俯いたまま頷く。
「いくか」
 私が一通りの作業を終えたのを確認した西谷くんはたっぷりと余白をもってそう言い、ずんずんと入り口付近に固まった男子たちを押しのけて進んでゆく。私はその後をやっぱり俯きながら追いかける。教室を出る直前、悠然と歩いて出て行った西谷くんを見つめた後の値踏みをするような視線が、突き刺さった。
 にっと笑いながら差し出された西谷くんの手に自分のそれを重ねながら、私は自分の顔をそらした。とても情けない顔をしているのが、鏡を見ないでもわかった。
 廊下を歩き終え階段で曲がろうとしたとき、ノヤのくせに生意気だぞ、と誰かが冗談交じりに野次を飛ばす。それを背に受けながら、確かに、その通りかもしれないと私は思った。私が西谷くんの隣にいるのは、確かに、生意気かもしれない。

「別に変なこと言われてないよな」
「う、うん。特には、何も」
 私はどもりながらも何とか平静を装って返事をすると、そっか、となにやら安心した風に西谷くんは胸をなでおろした。嘘はついていないはずだ。本当に、何もなかった。あれはただ単に私の意味もない不安や、どうしようもない自分の自信のなさからくる、怪物の幻影のようなものだ。彼にわざわざ伝えるほどのことでは、ない。
「何か、不都合なことがあったの?」
「ねえよ、んなもん!」
 西谷くんはぐいと胸を張って、繋いだ手をぶんぶんと振った。
「俺は名字の彼氏だからな!」
 西谷くんは確信めいたようにそう大声できっぱりと言い、私の顔を覗き込んだ。西谷くんの大きな、強い光をたたえた、無邪気な子犬を思わせる茶色の瞳いっぱいに、私が映っている。光に溢れたその世界の中で、私とその周りだけがくすんでいる気がした。
「どうしたの」
「なんでもない」
 そしてまた手を大振りに振りながら、ずんずんと自信に溢れた足取りで前へ前へと進んでいく。

 西谷くんは私のことを愛してくれている。言葉から、行動から、態度から、吐いた息から、およそ西谷くんから発される全てのことから、そのことを伝えてくれる。
 私も西谷くんのことが、好きだ。けれど私には彼のような自信が、ない。

 西谷くんと付き合い始めることになった旨を伝えると、ええ西谷ー? と半ば信じていないような声を上げた友人に、私はただ眉尻を下げて困った風に笑うしか手立てがなかった。まあでも好きならいいんじゃない? と投げやりに言われ、やり取りはそれきりで終わってしまったけれど、彼女が不審がる理由を私はいくつも上げることが出来た。
 引っ込み思案というレベルではなくなりつつあるこの厄介な性格が災いして男子と一切の交流のなかった私が、クラスの男子のうちで唯一まともなコミュニケーションをとることが出来たのは西谷くんただ一人であった。それも、ただひたすら喋り続ける西谷くんの話に時折相槌を打つだけのものではあったけど、それは私にとっては緊張や息苦しさを感じないで済むとても尊いものだった。
 好きだと言ってもらったあの日、胸からあふれ出しそうになった感情の中で身動きが取れなくなったことをよく覚えている。西谷くんと話すたびに少しずつ胸のうちに砂金のように降り積もっていた違和感が、西谷くんの言うものと同じであることをそこで初めて知った。
 あれから私たちは一緒に行動する時間こそ増えれど、その交流の形は時の流れの中で一切の進化を放棄した古代魚のように何も変わりはしなかった。西谷くんが喋り、私はそれに時々頷いたり、笑ったり。そして大抵の人が彼の見えないところで言う。「どうして?」と一切が理解できない風に無言で私に問いかける。けれど私はその答えを持ちあわせては、いない。あまりにも違いすぎる私たちの性質を、私はいつも肯定しきれない。

「送ってくれてありがとね」
 改札口の辺りまでついてきてくれた西谷くんに向き合い、お礼を言う。いつもは大抵駅の入り口だけれど、今日はここでさよならのようだ。
 じゃあ行くね、と足を進めようとすると、西谷くんが私の両手を自分のそれで包み込むように握り締めた。
「西谷くん?」
「明日、俺誕生日だから」
「え?」
「だから名字からなんかプレゼントくれ」
 あまりにも唐突な告白に驚く。
「そんな急に、用意してないよ」
「言い忘れてた」
「言い忘れてたじゃないよ。初めての誕生日なのに、あげれなかったら笑えないよ」
「菓子でも何でもいいから別に」
「何でもいいわけないでしょ」
 全く自体がわかっていないのか能天気そうに笑う西谷くんについ眉根を寄せてしまう。西谷くんはくるりとしたその目を剥いた。
「どうしたの?」
「い、いや、名字がそんな顔するなんて始めてだなって」
「するよ、それくらい。けど今はそんなことじゃなくてさ。そんな急に言われても困るの、変なのあげるわけにはいかないでしょ」
「貰えるんなら何でもいいけどなあ」
「西谷くんはよくても、あげたくない」
 不意に鼻の奥につんとした痛みを感じて、俯く。私にはいつも自信がない。だから、大切なことを逃してしまうのは、許されない。
「西谷くんはいいかもしれないけど、私にはよくないの」
 もう一度こらえきれなくなって吐き捨てるように言った。西谷くんのような自信が、私にはない。私には何もない。西谷くんは私に有り余るほどの物を与えてくれたけど、私が彼に与えられるものは何も、ない。
「な、泣くなよ」
「泣いてないよ」
 泣きたい気持ちではあるけれど、それは泣くという行為とは全く関係のないことの気がした。
「俺、ほんとに名字から貰えたら、なんでもいいから」
 西谷くんはぐずつく私を壊れ物みたいにそっと抱きしめて、私の顔の横で笑う。
「ほんとだから、ほんとに俺、名字のこと好きだから」
 体の中で星屑がきらきらと光った。あの日の、あの感じ。
「明日、絶対用意してくるからね」
「俺無理しなくていいっつっただろ、今」
 あの日、確証も確かめる術もなく、腐り落ちるのを待つだけだった私のそれを掬い上げた西谷くんを、私の返事に見たことのない顔で笑った西谷くんを、私は確かにいとおしいと思ったのだ。
「だって私、西谷くんの彼女だから」
 西谷くんは目を丸くして、光が小さな穴から染みだすように、また、わらう。

- ナノ -