「泣かないでよ、馬鹿みたい」
 別れないでと泣きながら懇願する彼に向けて出てきたのはそんな辛辣な言葉だった。
「高校遠いし、家近くないし、部活忙しいでしょ。もう無理だよ、高校も付き合うなんて。現実的な話さ」
 ねえだから冷静になってよ。
 ぐずぐずと涙を流しながら「メールも電話も今まで以上にすればいいだろ」と彼は言う。
「私たちそんな無理したことなかったじゃん。もっと気楽でお互い都合のいい感じに付き合ってたじゃん。それなのに最後の最後で泣かないでよ」
 私泣かれるの好きじゃないの、いらいらするんだから。友達呼んでるし、じゃあね。
 黙り込む彼にそう言って教室を出た。黒板には高校に入っても仲良くしようね、と丸文字ででかでかと書かれている。ばっかみたい。
 そんなの無理でしょ、卒業したら、今日という日が終わったら、みんなばらばらになるのに。
「名字さん」
 教室を出てすぐのところ、階段の踊り場に同じクラスの女の子がたっていた。もしかして、聞かれていたのだろうか。
「ん?」
「あんなこと言うなんて、きっと名字さんは器口くんのことが好きじゃなかったんだね」
「そうかもね」
 やっぱり聞かれていたみたいだった。
「頭おかしいんじゃない」
 そうかもね。そういうと彼女は、軽蔑した目で私を見た。


「月島くんの昔の話、名前ちゃん知ってる?」
 月島くんの部活が終わるのを教室で大人しく待っていると、いつの間にやら現れたクラスメートの女の子がそう尋ねてきた。
「んー、何の話?」
「だから、昔の話。あたしの友達が月島くんと中学一緒で聞いたんだけどさ、」
「あ、いいや」
「え?」
「私その話知ってるよ、もう」
「うっそだあ。なら絶対付き合ってないよ。それくらいのことなんだから」
「時間だから行くね。バイバイまた明日」
 そう言って背中を向けると、ちょっと待ってよ、と影で男子からマスゴミと呼ばれている女の子が後ろから声をかけてきた。
 無視を決め込み、心の中でこっそり舌を突き出す。私は彼女に半分だけ嘘を吐いていた。


「ごめん、待たせちゃって」
「部活が終わるまで待ってたの名字だろ」
「うん、でもごめんね」
「いいから、ほら行くよ」
 月島くんはぶっきらぼうに私の腕を引っ張った。今日は山口くんがいない。珍しいこの日には大抵、月島くんはいつも以上に無愛想になる。私はそれが照れ隠しであることを、知っていた。
「うん」
 じわりと額に滲む汗を拭いながら、月島くんの後を追いかける。あつい。
「あついね」
「そうだね」
「ねえ、あそこのコンビニ寄っていい? アイス買いたいなあって」
「じゃあ僕のも買ってきてよ。これ、お金」
 月島君がポケットの中を探って、金色の硬貨を一枚出す。私の手のひらに乗せられたそれは、月島くんが触った部分だけが汗でぬかるんでいた。
「わかった、何がいい?」
「ソーダのアイスバー。お釣りいいから君の買いなよ」
「ありがと、ここで待っててね」
 コンビニに入って、月島くんの分と鮮やかなピンクに包装されたピーチのアイスバーを引っつかみ、会計を済ませる。
 半透明の袋に閉じ込められたそれは、ビビットカラーを透かしている。
「おまたせ」
 コンビニの外で待っていた月島くんの前に立つと、遠くを見ていた彼がゆっくりとこちらを向いた。
 その瞳を見た瞬間、「月島くんの昔の話名前ちゃん知ってる?」と頭の中で誰かの声が聴こえた。


 月島くんの異変に私が最初に気がついたのは、私が彼と付き合い始めてから2週間ほど経った頃だった。
 山口くんが日直で先生に呼び出され、珍しく二人っきりで話をしていた昼休みのときのこと。
 その直前までなんでもないように、時には笑いながら話をしていたのに、突然月島くんが黙り込んだのだ。
 最初は聞こえていないかと思い、何度か同じ内容を繰り返したけれど、月島くんの反応は変わらなかった。
 そんなことは初めてだったので反応の仕方に困ってしまい、何か彼の地雷を知らない間に踏んでしまったのかと焦りもした。
「席、外す」
 その焦りもあって早口に意味のない話をまくしたてるように喋っていた私に、ぼそぼそと口だけ小さく動かして月島くんはどこかへ行ってしまった。そして、その日は終業のチャイムが鳴っても戻ってはこなかった。


 それ以来月島くんは、不定期に不機嫌とは別に無口になる。
 ただの無表情であればなんでもなかったのだろうけど、その顔があまりに白く張り詰めているから、私はその度に得体の知れない恐怖に襲われた。その顔はそのまま、白に溶けてしまいそうな表情をしていたから。


「ツッキー、たまにそうなるんだよ」
 ついにその恐怖に耐え切れなくなって、山口くんに相談すると、彼は困ったように笑いながら言った。
「名字もあるだろ、昔の嫌なことを思い出すの」
 山口くんは苦しそうに笑っている。
「ツッキーの場合それが始まると、今のことが手につかないくらい酷くなるんだ。それにとり憑かれちゃうんだよ」
 酸素が足りない、と彼の目は私に訴えてくる。けれど私は何にも出来ない。月島くんが席を立ったときと同じように、どうしてあげることもできない。
「何があったの」
 山口くんは頭を振る。
「ツッキーのことだから、俺が勝手に言ったら怒られちゃうよ」
「……そうだね」
「名字さ、よかったらなんだけど、もしまたツッキーがそんなことになったら、出来る範囲でいいからツッキーのお願いを聞いて欲しいんだ」
「それが一番いい方法なの?」
「わかんない、俺にもわかんない。でも俺にはそうすることしか出来ないから」
 本当にわかんないんだ。死んでしまいそうな顔でもう一度そう笑いながら、山口くんは私の肩を軽く叩いた。
「でもツッキーは本当に心を許した人の前でしかそんなことにならないから、そういう意味ではいいことなんだよきっと」
 山口くんは半分、まじないをかけるようにそう言った。


「これ、月島くんの分」
 ぶらりと垂れ下がった月島くんの右手にそれを近づけると、彼の指がさりげなくそれを避けた。
「ここあついから日陰で食べよ、あそこにベンチあるから」 
 指でその場所を指し示しても、月島くんは動かない。仕方なく、無理矢理腕を引っ張って街路樹のまだらな影の下まで連れて行く。触れた彼の腕は驚くほど冷えていた。
 水色の袋を破り、ベンチに力なく座る月島くんの指にアイスバーを絡めさせる。
「アイス、早く食べないと溶けちゃうから」
 肘を太腿にくっつけ手首だけ上にあげた形でアイスバーを掲げたままの月島くんに声をかける。やっぱり反応は、ない。
 表面からほんの少しずつ溶け始めたアイスが、彼の手首をほのかに蒼へと染め上げていく。
 私はそれを横目で見ながら少しずつ、出来るだけ時間をかけて自分のそれを食べていく。
「僕、帰る」
 足元の石畳にスカイブルーの小さな海が広がりだした頃、月島くんが掠れた声で呟き、立ち上がる。腕の動きに合わせて、海の一部が散った。
「待って」
 咄嗟に月島くんがアイスバーを持っているほうの手を掴んでしまい、月島くんのアイスバーがぐしゃりと落ちた。
「はなして」
 山口くんの苦しそうな笑顔が脳裏をよぎる。
「月島くん、」
 月島くんの指は寒がるみたいに、怯えるみたいに、震えている。
「名字はなして」
 冷たい氷に似た、向こうが透けるばかりでこちらがちっとも映りこまない月島くんの瞳は、山口くんが教えてくれなかった、クラスの女の子が知っていた、そして私の知らない彼の過去に、囚われている。
「行かないで、お願い」
 食べかけのアイスに気を使いながら、月島くんの背中に両腕をまわす。月島くんは数歩後退りをしようとするけど、私の腕がそれを許さない。
「名字、はなして……」
 月島くんの瞳が一瞬大きく揺れる。それを見ていると、鼻の奥がつんとした。
「私、絶対離れないよ。月島くんが離れたいって言うまで絶対離れない。だから、」
 声が思わず震えそうになり、深呼吸をする。
「だから、思ってもないのにそんなこと言わないで」
 月島くんの瞳が見開かれ、ぎゅうっと切なくなるほど眉根が寄せられた。痛みに耐えるみたいな、そんな顔だ。
「行かないで、お願い」
 もう一度そういうと、月島くんが低くうめくような声を上げて、恐る恐ると私の腰に手を回した。蒼に犯された月島くんの右手はシャツを湿らせて、肌に直接彼の腕の存在を伝えてくる。
 肩口にうずめられた月島くんの顔は泣きそうだ。
「名字、ごめん」
 僕こんなことがしたいんじゃないんだ。月島くんは泣きそうだ。でも泣かない。彼は絶対に泣かない。
 泣いてくれればいいのに。そう思うけど、彼はやっぱり泣かないのだと思う。
 泣いてくれればいいのに。私が泣いちゃう前に、泣いてくれれば、いいのに。
 頭おかしいんじゃない。と誰かが頭の中で呟く。確かに、おかしいのかもしれない。人を好きになると、おかしくなるのかもしれない。

 いつのまにか私も、月島くんのアイスバーの上に折り重ねるように自分のそれを落としていた。
 水色とピンクのビビットの海がどんどんと広がってゆく。

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