かすかな寝息が聞こえる。私は極力衣擦れの音も立たないように息を殺して寝返りを打った。ベットのスプリングがゆっくりとたわむ。すっかり眠り込んでいる山口くんの胸の上に手を乗せると、パジャマ越しに彼の心臓がなんの問題もなく機能していることを確かめた。触れた部分から溶け出して境界を失ってしまいそうなほど彼の身体はとても温かい。ベッドをからそろりと足を下ろす。足の裏に触れたフローリングは残酷なほど冷え切っていた。後ろ手に部屋の扉を閉めると、廊下に併設されたキッチンをぼんやりと眺めた。キッチンの吊り戸棚の下に申し訳程度に取り付けられた細長い明かり取りの窓からは、車のライトが時折ぼんやりと差し込んでいた。夜をいとわず街を這い回る彼らには目的地があるはずだった。ここじゃないどこかに行くのだ。私は思わずキッチンの奥にひそむ玄関に目をやった。狭いたたきのすみで、山口くんがうちに履いてきたスニーカーが私のパンプスの横でひっそりとそびえたっている。仕事用のそれは、週末の度に余念なく磨かれており、それを証明しようと暗闇の中でもわずかな光を集めてぼんやりと輝いていた。
「出かけるの?」
「……ごめん、起こしちゃった?」
「ううん」
「喉が、喉が渇いちゃって」
 そんなのは嘘だった。彼と私が出てきた部屋のベッドの脇にはいつだって2Lのペットボトルとガラスのカップが1つ置いてある。眠る前に1杯、目覚めて1杯水を摂る習慣があったのは私で、気に入ったのは山口くんだった。最初は彼がいる夜はきちんと2つ用意していたが、部屋が暗く寝ぼけた状態でカップを掴むので区別がつかなくなって、結局同じ1つのカップを共有するようになった。
「やっぱり、ウォーターサーバー契約して正解だったよ」
「まだ来てないのに?」
「引っ越ししたら、名前もそう思うって」
 山口くんは私の嘘なんかちっとも気づかなかったという顔をして、戸棚からマグカップを取り出し、なみなみと水を注いだ。先月内見で訪れた、私たちの職場のちょうど中間にある1LDKにまず関心を持ったのは彼で、それを気に入ったのは私だった。二人で予算を出し合うから今住んでいる部屋より広く、とても便利な場所だった。寝室にウォーターサーバーを置こうと提案したのは彼で、2Lのペットボトルを少し邪魔だなあと思っていたから同意したのは私だった。山口くんは、私の生活を少しずつ居心地の良いものに変えてくれていた。それは母猫が子どもにミルクを分け与えるみたいに自然なことだった。
「山口くんって、水みたい」
「どういうこと?」
「夜に水を飲み始めるまで、私、自分の喉が渇いてるなんて気づかなかったの。山口くんが生活に染み込んじゃって、もう昔の生活なんて考えられなくなっちゃった」
「昔の生活?」
「山口くんのいなかったころ、喉が渇いてるなんて知らなかったころ」
 だから怖いのだ。胸に染み込んだ彼の体温を私は忘れることはできないだろう。
 山口くんは何も言わず、私の手にマグカップを握らせた。私は促されるままその淵に口をつけた。冷たい水がするすると喉を通って身体の奥に落ちていく。
 

- ナノ -