「誕生日は実家に帰るんだよね、お祝いは次の週でもいい?」
「ああ、もちろん。いつも面倒をかけて悪いね。ペロリン♪」
「ううん、ほんとは前の週にしたかったけど私も予定が入っちゃって」
「構わないさ、そのうち名前も弟や妹に紹介したい。もちろんママにも」
「えぇ、緊張するなぁ」
「なあに、みんなお前を気に入るよ」
 ペロスペローの誕生日は毎年家族でお祝いするのが習わしだった。誕生日だけではない、クリスマスやそのほかのたくさんのお祝いごと(なにせ彼の家族は信じられないほど大所帯なのだ)につけて彼は律儀に実家に顔を出していた。それ以外にも彼の家にはたくさんの決まり事があるようだった。家族は仲良く、食卓はみんなで、おやつは絶対。それらは不文律でありながら、この世で最も尊いルールとして彼の頭上に頑然と輝いている。海を臨む丘の上に立つ大きな家でたくさんの家族に囲まれて笑う彼は世界中の人が思い描く幸福の最大公約数を抱いているようだった。手帳に挟んだその写真を見せてくれたとき、彼はとても誇らしげで、普段人々に見せているあの金太郎飴のような決まり切った笑顔とは少し違っていた。
 誕生日の次の週、週末はまるまる押さえていた。ちょっと遠出をして、景色のいいホテルに行くつもりだった。彼からしたら大したことのない名だろうが、こういうときに大切なのはそんなことではないのだ。きっとペロスペローは彼以外誰も着こなせないようなデザインの立襟のシャツでも着てくるだろう。あんな服をいったいどこで調達してくるのか皆目見当もつかなかったが、それはいつも完全に彼と調和していた。
 誕生日当日は電話と何度かメッセージをやり取りしていたが、それも夕方ごろにすっかり途絶えてしまった。きっと彼の家でのお祝いが本格化したのだろう。あれこれと次の日の用意をしているとあっという間に夜は更け、そろそろ眠ろうかとソファから立ち上がった時、玄関のチャイムが鳴った。おそるおそる扉の前に立ち、ドアスコープに片目を寄せた私はさらにぎょっとすることとなる。
「どうしたの?」
 今日は彼の誕生日で、だからこそ実家にいるはずだった。海沿いの大きな家で、たくさんの家族とごちそうに囲まれて。安アパートの吹きっ晒しの外廊下に立っているはずなんてなかった。けれどシャローット・ペロスペローその人は、そのスラリとした頭身の大部分を見切れさせながら、小さな丸いガラスにはめ込まれていた。

 朝の天気予報を無視し、夕方から降り出した気まぐれな雨にちょうどぶち当たってしまったのか、彼の色調豊かな痩身のスーツは水分をたっぷりと含み普段の彩度を潜めていた。ぴっちりと整えられていたはずの髪を少し乱し、欲望のままに食事を繰り返しても痩けたままの頬を雨が伝う。
「今夜ここに来るつもりじゃなかった」
「うん」
「急に来て悪かった、もう帰ろう」
「もう電車もなくなるよ」
「いや、車で来たんだ」
「ならなおさら泊まっていって、こんな状態で帰せないよ」
「“こんな”? おれが一体どうだって言うんだ」
 ペロスペローはその一言が耐え難く不快だったらしく、まるで煮えたぎる憎悪の瞳を私にまっすぐと向けた。
「とにかく、すごく疲れてる。お願いだよ、今日は家に泊まっていって」
 止む気配のない雨のなか、傘を持たない彼を追い返すことは選択肢に到底なかった。彼がその言葉の通り車で来たというのならここから少し離れたパーキングに停めているはずだ。そして彼はきっと私のビニール傘なんか決して受け取らないだろう。
「お願い、ペロスペロー。今夜だけはここで私と一緒にいてよ」
 上等なリネンのシャツが冷えて張り付く身体に手を回す。彼は力なく立ち尽くすばかりで、何も答えなかった。
 なだめすかしてなんとか部屋へ招き入れたペロスペローだったが、ぐったりとして無抵抗なことをいいことにさっさと部屋着に着替えさせた。濡れたシャツや下着類はまとめて洗濯機に放り込む。シャツは乾燥前に取り出して、洗うにはためらってしまったボトムスと一緒に浴室乾燥にかければ、朝にはなんとかなっているはずだ。車の助手席にまるまったままだろうジャケットのことは考えないことにした。春の嵐を受けた彼の身体が完全に冷え切る前に、ペロスペロー本人を浴室に追いやらなければならない。湯船にお湯がたまる間、彼はぼんやりとマグカップを握りしめてその水面を見つめていた。
「気分じゃなかった? 紅茶は寝れなくなるかと思って」
「おれも、よくホットミルクを作ってやった。弟たちが眠れないとぐずるから。こんな嵐の夜だと特に。おれの家にはママはいても子どもの面倒を根気よく見る人ではなかったし、父親は最初からいなかったから、おれがずっと作ってやってたんだ。今日もおれの誕生祝いの途中でママが癇癪を起こして、弟たちが泣き出して、それはもうめちゃくちゃだったさ。ママを静めて、みんなをなんとか寝かせるまで何も考えられなかった。はやく終わりますように、そのことだけずっと考えてた。一番下の妹を抱いて寝かしつけながら、窓の外に岬の光を見てた。嵐の夜はいつもそれが緑に見える」
 昨日の晩ごはんはカレーだった、みたいな、なんでもないことを報告するような声だった。少なくとも、最新の注意を払ってなんでもないように、せめて投げやりに聞こえるよう努めている声色だった。家族は仲良く、食卓はみんなで、おやつは絶対、ママには決して逆らわない。彼は最後の一つこそ明確に示したことはなかったが、それを遵守することに細心の注意を払っていることはうすうす気づいていた。そして、どれだけそれに心血を注ごうと、私にそれをあからさまには口外しなかった。
「ペロスペローは、泣かなかったの?」
「……どうかな、忘れちまった」
 私はただぼんやりと、幼い彼は癇癪持ちの母親しかいない嵐の夜を、ホットミルクもなしにどうやって過ごしたのだろうと考えた。私はソファに力なく座る彼の背を撫ぜた。
「まだ手が冷たいね、お風呂に入ってきなよ」 
 ペロスペローを浴室に追いやったあと、コンビニに買い出しに行ってくることを扉越しに声をかけて、寝間着同然の格好で出かけた。ペロスペローが見たら眉をひそめるだろうが、彼が湯船から上がるまでに戻ってしまえば問題はなかった。そもそも、そんな気力が彼に残っているかも怪しいものだった。必要なものを手早く購入し、冷蔵庫に収める。
「こんな夜中にでかけてたのか」
「ちゃんと声かけたもん」
 顔を上げるとリビングの入口にペロスペローがタオルを片手に立っていた。湯船に浸かって少し元気を取り戻したらしい。
「髪、乾かしたげるよ」
「ペロリン、至れり尽くせりだな」
 誕生日だからね、とソファに座らせた彼の頭頂部に唇を押し当てる。それでもなんと位置の高いことか。洗面所からドライヤーを持ってきて、彼の髪を乾かしてやった。艶のあるよくケアをされた髪が指の間をすり抜けていく。ごうごうと風が音を立てるなか、彼は何も言わなかった。
「誕生日おめでとう、ペロスペロー。もう過ぎちゃったし、コンビニのだけどまた来週ちゃんとお祝いしようね」
 だからコンビニで買ってきたちんけなケーキを出したとき、ペロスペローが泣き出すなんて到底思いもしていなかった。いつも余裕しゃくしゃくのふてぶてしい笑みを浮かべているはずの彼は、とうとう顔を覆い痩せた身体をめいいっぱい折りたたんで、声を上げずに肩を震わせていた。
「おれにホットミルクを入れてくれる人間は名前、お前なんだよ。おれの嵐の夜のしるべさ」
 やっとのことでそう言い切ったペロスペローは髪をかきあげ、ぺろりとケーキを食べ上げた。私は彼の膝を乗って、私の分のケーキも食べさせてやりながら、彼の身体に私の持つ体温やその他の一切を渡せたらいいのにと思わずにいられなかった。彼の無比の献身に少しでも報いてやりたかったのだ。
「明日の朝はフレンチトーストにしよう、つくってあげるよ」
「ではおれはお前のをつくってやろう、ペロリン♪」
「負けないからね」
「ククク、勝負なのかこれは」
「ううん、ペロスペローが大好きって気持ちを込めるよってこと」
「そうか」
 ペロスペローはこちらに寝返りを打って私の身体を抱きしめたきり何も言わなかった。明日の朝、私は彼のその腕に抱きしめられたまま目覚め、起き上がろうとする彼を口八丁で言いくるめて二度寝を繰り返したのちに彼のための紅茶とフレンチトーストを用意したいけれど、彼はきっと朝日ものぼらないうちにひっそりと起き上がり、身支度を手早く整えてひとりで彼の家に帰ってしまうのだろう。彼の家族が待つ食卓につくために。
 

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