先端に蛍火を灯した煙草はまだ長さに余裕があるけれど、これが最後の一本だと思うと何となく焦ってしまう。吸い終えるより早く新しいものを買えることはわかりきっているはずなのにどうしてだろうか。
 くわえ煙草をしながらの夜道は理由もなく楽しい。鼻歌でも歌いたくなる。スーツを着て煙草を吸いながら足を引きずる女がハミングをしているのはおそらく異常な光景だけれど、そんなことすらどうでもよくなる。本当に、どうでもいい。
 ジージーと意地の悪い音を立てる青白い水銀灯に照らされた田舎の道路に、一点だけ蜜柑色を落とす店が見えた。さっさと煙草を買ってしまおう。今はそのことだけを考える。さっさと買ってしまった後のことはその時に考えればいい話だ。
「もういいよ!」
 不意に女の大きな、甲高い声が聞こえた。直後その店からハイヒールを履いた若い女が飛び出して、私が歩く道とは逆の、駅へと続くほうに器用に走っていく。ハイヒールを履いていることを感じさせない走りだ。
 私はパンプスを引きずりながらその店へとたどり着き、引き戸に手を掛けた。
「……いらっしゃーせ」
 店の店主があからさまに面倒臭いという顔をして振り返る。いつもは坂ノ下商店なんて安直極まりない店名をでかでかとプリントしたエプロンを着ているが、今日は珍しくジャージ姿だ。
 烏養、と名前を呼ぶと、あ? と柄の悪い返事が返ってきた。高校からの顔馴染みといえども、客に対する態度としてはあるまじきものだ。
「追い掛けなくていいの」
「どうせ駅にいる」
 烏養はガシガシと頭を乱暴に掻いた。やる気がないだけで接客するつもりはあるらしい。
「いつもの一ダース」
「お前吸いすぎだろ、昨日買ってったばっかじゃねえか」
「それ全部捨てられたの」
「はあ?」
 男は意味がわからないという風に私をまじまじと見つめた。
「捨てられたって、同棲してる彼氏に?」
「健康に悪いからやめろって。匂いがどうのこうの言われたときはベランダで妥協したけどさ、お互い」
 今回はその余地もなく、全部捨てられていた。仕事場に持っていくのを今日に限って忘れていたので、文字通り掃討されていた。
「一本だけ残してあって、これが最後だからって渡された」
 それがこれよ、と今吸っている分を指差すと、烏養はどん引いた声を上げた。
「ヘビースモーカーにそれはきついな」
「ヤニ切れでイライラしてたからふざけんなってぶったたいて家出てきちゃった」
 そうしたくもなるわな、と烏養はうんうんと頷く。烏養は私以上の愛煙家だ。ニコ中の気持ちはニコ中にしかわからないのだろう。ヨソもヨソで大変だ、なんて呟いている。
「そっちはどうしたの」
「会う約束してたけど練習が長引いて遅れた」
「その割りにはかなりのご立腹だったんじゃない」
「バレーとどっちを優先してんだって聞かれたけど、俺も疲れててスポーツと人間比べても意味ねえだろって」
「うわあ、あんたが悪いよ。彼女それまでずっと店で待ってたんでしょ」
「ヤニ切れで男をぶつ奴に言われたかねえや」
 奥の烏養の部屋に上げてもらい、並んで腰を下ろした。
 烏養が私が買った煙草を勝手に開け、吸いはじめる。
「ちょっと、私のなんだけど」
「別にいいだろ、うちで買ったんだから。つーか味うっすいなあ。吸った気になんねえ」
「文句あるなら吸わないで」
「ないない、煙草ならみんなうまい」
 ニコチンが回ってきたのか、烏養が目を閉じ、ゆったりとした様子で煙を口から吐き出した。
「なにそれ」
「すごいだろ」
 烏養が吐き出した煙は細い輪の形をしていた。細い輪の括りの中で、紫煙たちはくるくると回っている。その回転に沿って煙の輪は広がり、小さく千切れて空中に霧散してしまった。
「なにそれ」
 もう一度私が言うと、「教えてやろうか」と烏養は得意げな顔になった。むかつく顔だった。
「コツがあるんだよ」
 よほど気分がいいのか、頼んでもないのに烏養は先程の煙の作り方を教えてくる。
「下唇を上唇より気持ち出して、先を丸めた舌を前歯の裏に添えたらいい」
 それにも関わらず、その通りにして、こう? と煙を吐き出し烏養に横目でお伺いを立てる自分が憎かった。
「ちがうちがう、唇曲げすぎ」
 烏養が実践してみせる。若い女がキスを強請るような形だった。確かに、私の唇は丸めすぎだったのかもしれない。
「キスしたがってるみたい」
「いいからさっさとしろ」
 烏養は私の唇をじっと見つめながらあーでもないこーでもないと文句を言ってくる。あんたがぐだぐだ言うから出来ないのよ、と私が言うと、ならやってみろよ、と烏養が私を促した。
 私の唇の間から何度も煙が吐き出されるのを烏養は黙って見つめている。
「難しい」
 息を吐きすぎて酸欠になりそうだ。
「早々簡単に出来るもんじゃねえよ」
 烏養は眠そうな目をしている。今にも眠ってしまいそうだ。もしかしたら、もう半分は寝ているのかもしれない。だからこんな、夢を見ているような目をしているのか。
「あとちょっとなんだけどなあ」
 もう一度チャレンジしてみる。穴らしいものは開いたが、輪の形はしておらずこれも失敗。けれど着実に上手くはなっている。
 目を閉じて、目蓋の裏に烏養の姿を描く。口先の神経を集中させ、その形を寸分狂わず同一にし、細心の注意を払って息を吐いた。
 くるくると渦巻きながら煙は広がっていき、それは綺麗な輪を形作った。
「烏養」
 見た? と横へ顔を向けると、烏養は何も答えず私の上に覆いかぶさってきた。
「ちょっ、何してんの」
 烏養は何も答えず、私を畳の上に押し倒す。煙草は奪われ、烏養のものとともに乱雑に灰皿へと押しつけられた。長いのに、もったいない。そんなことを場違いに考えてしまう。
 肩口に顔を埋められると、煙草の匂いのなかに汗が交じっていることに気が付いた。嗅ぎ慣れていた筈の匂いに、何故か心臓が暴れた。
 烏養は親指の腹を何度も私の下唇に這わせ、「かわいい」とだけ小さく呟いた。夢を見ているような目だった。
 烏養は私の唇を撫でながら、もう片方の手で顔の輪郭だとか首筋だとかにも手を伸ばす。烏養特有の愛撫に、情けない話、お腹の下の辺りがぐずついた。条件反射、だ。
 かわいいと呟いた唇を体中に這わしてほしい。その中で丸まっているであろう舌で舐めあげてほしい。そんなどうしようもない欲求がこみあげてくる。
「繋心、」
 雰囲気に呑まれてうっかり下の名前で呼私に彼は、にっと笑いかけた。私が好きで好きでたまらなかった、彼独特の、笑い方だった。
「キスして、いいか」
 烏養が私の前髪に指を通して優しくかきあげながらそう尋ねてくる。靄がかかったような頭で、私はそれに頷く。
 烏養はそっと唇を寄せた。
 その瞬間、烏養と私の間に辛うじて存在していた私のスーツの内ポケットがぶるりと震えた。それから少し遅れて、Somebody that I used to know、と歌いだす。烏養が驚いて目を少し見開き、私から上半身を遠ざけた。茫然と顔を見合わせる。そこでようやく、二人して夢を見ていたことに気が付いた。
「なんか、ごめん」
「あ、いや……今のは俺が悪かった」
 烏養は片手で額を押さえ、情けねえと呟いた。
「お前を見てたら昔のこと色々思い出して、なんか今の状況を忘れてたっていうか、勘違いしてたっていうか」
「雰囲気に呑まれるなんてほんとに起こるんだね。私も久しぶりに繋心なんて呼んじゃったよ」
 お互い乾いた笑いしか出てこず、妙な疲労感が場に残る。
「今の彼氏?」
「多分ね」
「助かったわ、とんでもねえ過ちを犯すとこだったわ」
「過ちより本質的な意味合いの犯すでしょ」
「笑えねえよ」
 烏養が私の肩を強く叩いた。新しい煙草に火を付け、お前も吸うかと聞かれる。意識が大分はっきりしてきた頭で私はそれにこっくりと頷いた。
 淋しい蛍火が二つ、とても近いけれど少し離れて頼りなさげに光る。
「まあお互いどうにかしてたってことで」
「そうだな」
 それきり一言も喋らず、心地よい沈黙が辺りを支配していた。
「私そろそろ帰るわ」
 煙草を吸い終え、しばらくした頃、ようやく重い腰を上げた。
「そっか、それがいいな」
 烏養も煙草を灰皿に押しつけ、頷く。
「だからあんたもすることしなよ」
 わーってるわーってる。烏養は多少ぎこちないながらも笑った。
「いい彼女なんじゃないの、よく知らないけど。自分の言いたいことは素直に言える人みたいだし」
「前回から教訓を得てんだよ。お前のもいいやつなんじゃねえの、顔すらも見たことねえけど。お前のこと考えてくれてるみたいだし」
「こっちも前回から教訓を得てんのよ。多少やり方は間違ってんだけどね」
 今度は二人顔を見合わせて声を上げ笑った。
「じゃあそろそろ行くわ」
 立ち上がると、烏養が私の背を叩きにやりと笑った。
「減らず口ばっか叩くんじゃねえぞ」
「そっちこそ彼女のこと考えてやりなよ」
「馬鹿にしてんのか。あ、煙草忘れてんぞ」
「いらない。あげる」
「いらないって1ダースもあるんだぞ」
「持って帰ってももう吸わないだろうってこと」
 そっか、と烏養は頷いた。それで大体は察してくれたらしかった。
「じゃあね」
 戸を開ける前に後ろを振り替えると、烏養は新しい煙草に火を付けていて、その煙でお得意のバブルリングを送り込んできた。
「嫌味か」
 煙草の煙が私の鼻先を抜けていく。くそう、吸いたい。
「また吸いたくなったら来いよ」
「別れろってか」
 笑って返すと、ちげーわと鼻を鳴らされた。
「1ダースや2ダースぐらい息抜きになら奢ってやるっつってんだよ」
「そりゃありがたい」
 じゃあねと手を振って、引き戸を開けその下をくぐる。烏養が出かけの支度を始める音が聞こえる。
 夜の空気を肺一杯に詰め込むと、先程までの煙草の匂いは追いやられてしまった。さっさと帰ろう。早くこの場所を離れてしまおう。私の居場所はもうここじゃない。私の気持ちはもうここにはない。そしてここには二度と、来ない。多分烏養も分かっていることだ。
 息を吐き、両腕で自分の体をぎゅっと抱き締める。
 少し遠いところで、青白い光が点滅していた。
 蛍火は、もういない。

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