「名前が光源氏したって東京でも話題だったよ」
「光源氏って……。こちら東京校の器口さん、仕事で何度かお世話になってる。で、禪院真依さん、俺の婚約者だよ」
「うちにいる禪院の娘さんの双子なんだっけ? ってことは今……」
 名前は少し言いよどんで、「16だよ」と白状する。器口は二目と見れないほど醜悪なものを見たと言わんばかりに顔をしかめた。
「はぁ、聞かない話じゃないけど術師ってなんでこうもロリコンばっかなの?」
「真依さんと俺はそういうんじゃないよっていっても弁解すればするほどキモくなっちゃうからここはノーコメントで」
「東京校来るとき事前に連絡しなさいよ、学生と引き合わせずに済むスケジュールにしておくから」
「政治思想犯みたいな隔離措置……」
 悲しいかな、器口の対応はさして間違ってはいないだろう。
「いつから幼女趣味だったわけ? 東京の女子たちが嘆き悲しむわあ」
「エッ、俺そういう頭数に入ってたんですか」
「結構人気高かったのよ、まあ安心して、まだマシってだけだから。術師ってどうしてあんなにいかれてる連中ばっかなのかしら。アンタ反転術式使えるから死別の可能性も低かったのにね、こうもロリコンだと意味もないけど。未来ある若者のために死別するのも手よ」
「そろそろ泣きますよ」
「なんでアンタが泣くのよ、自分で蒔いた種でしょーが」
 レストランに入るとちょうどコートを受け取り店を出ようとしていた女が名前の顔を見て歓声を上げた。名前は彼女に覚えがあるのか、親しげに応え真依を紹介する。真依が口を挟むすきもなく流々と会話は進むところを見るに、よほど親しい間柄なのだろう。東京校は姉がいる、高専に入学後ほとんど東日本での任務は請け負ってこなかったので真依は全くと言っていいほど知らない領域だった。東京校でも名前と真依の婚約が話題になっていたということは、きっと姉である真希も聞き及んでいるに違いない。真希はどう思っただろうか、親を押し退けられない真依の弱さを哀れんだかもしれない。真依はこれ以上余計なことを考えるのをやめ、器口の問いかけに曖昧な笑みを浮かべて応じることに徹した。
「ここならゆっくり話せるかなと思ってきたけど、ゆっくり話せるから仕事でもよく使ってたのは盲点だったな……」
 座席間隔を広く取った店内では客たちが会話を弾ませながら食事に勤しんでいる。確かに隣の話し声は聞こえるが内容までは聞き取れない。どうやら彼女にここを紹介したのは名前のようだった。器口と別れた名前はすっかり気疲れした様子でぐったりと席に沈んでいた。この男、呪術師にしては女にしてやられることが多すぎる。出生の割に気安い性格が人受けの良さなのかもしれない、と真依はどこか他人事のように考えた。
「今日は忙しいのに付き合ってくれてありがとうね」
「いえ、誘ってくださってありがとうございます」
「お姉さんいるんだよね、一度皆さんにご挨拶しないとね」
 名前はいまだに真依の姉どころか親族に誰ひとりとて会っていなかった。年始の忙しい時期とはいえ、両家揃って挨拶の一つでもするのが礼儀というものであろう。名前は非礼を恥じいっているようだが、挨拶をする気がないのは禪院家の方だった。ここしばらく直毘人の機嫌が悪く、酒を手放そうとしない。元々予定されていた年間行事はこなしている様だが、急遽浮上した縁談の諸事まで話を通せなかったのだろう。無論、真依の優先順位が低いこともある。たとえ婚約者が加茂家の中枢部であろうと、どうせソトに嫁ぐ女だ。しばらくは捨て置いても良いと思われたのだろう。
「別に急がなくていいです。どうせ、あの家ですから」
 失望などしていない。ただ最初から何も期待していないだけだ。顔を上げたまま答える真依に、名前は静かに微笑んだ。まるで迷子の子供を見つけた時のような笑い方だ。
「真依さんはもし自分が普通の家庭に生まれてたらどうなってたと思う?」
「どうって……普通の学校に通ったり就職したりするんじゃないですか?」
「前回、結婚は真依さんが25歳になるまで待ってほしいって言ったのは覚えてる?」
「はい、知り合ったばかりだからすぐに結婚することは止めておこうって」
 保守的な術師の家系であれば顔を合わせた当日に結婚することも別におかしな話ではなかった。勿論こちらは結婚する当日まで本人たちが直接知り合わなかったという側面の方が大きいが。ここでの結婚はあくまで家と家同士の結束を強めるための儀式なのだ。その過程に男女一人ずつとその人生が必要なだけだ。真依も名前もただの過不足ない部品にすぎない。
「俺は今年28になるから、真依さんが25歳になるときは37なわけだけど」
「まあ、そうですね」
「25になったあなたはわざわざ40近い男と結婚したいだろうか」
「……はい?」
「これは俺の一方的な印象なんだけど、真依さんは呪術師になりたくてなったわけじゃないんじゃないかな? それこそ今の家に生まれていなければ存在しない選択肢だ」
「……他に選ぶ余地もなかったですから」
 遠ざかる姉の足音を背に聞きながら、廊下に座り込んでいた日のことをまるで昨日のことのように思い出せる。あの日を境に真依の運命は決定づけられてしまった。中傷にうつむきながら耐えてきたが傷を舐め合うことさえ奪われたったひとり茨の中を突き進むことを強要される。この中で自分から喜んで受けた傷なんてただの一度もなかった、誰が好き好んで苦痛を受けたいと思うだろうか。呪術高専への入学は、真依にとって最も孤独で痛ましいたった一つの選ばざるを得ない選択肢だった。
「そうだね、でももし普通の家庭に生まれていれば? 呪術師になることは勿論、若いみそらで40近い男と結婚なんてしなくてすんだはずだ。俺があなたと婚約したと聞いた歌姫さんや器口さんをみたでしょう、あれが普通の反応なんだよ。普通、16歳の女の子と28の男は付き合ったりしないんだ。もしそんな関係があるんだとしたら暴力に極めて近い。俺が16のときあなたはまだ7歳だった、この年齢の勾配は70歳と79歳の間にあるものとはわけが違う」
「何が言いたいんですか?」
 話の着地点がまるで見えない。年端も行かない少女であるという真依に自分から結婚を申し込んでおいて彼女の人生に大きな波風を立てている張本人が、自分自身の行為とそれを容認する親族を口さがなく批判してやまない。婚約は申し込まれ、そしてその申し出はすでに受諾されたのだ。決断をしたのは真依自身であり、結果に関わらずそれを直接迫ったのは名前本人に違いなかった。怪訝そうに眉を寄せる真依に名前は歌うように告げた。まるで今朝方真依の服装を褒めた時となんの代わりもないように。
「あなたが25歳になるまで俺はあなたの婚約者になる、けど真依さんがその先もずっと俺に縛られる必要はない。9年後にこの婚約は無効にしませんか」
「何を言ってるの……」
 言葉を失った真依に名前はもう一度言い含めるように重ねる。
「あなたは自由に生きていい。好きな仕事をして、好きな人と結婚できるし、したくなければしなくてもいい。全部真依さんが真依さん自身で自分の人生を選んで生きていける。これから9年間はそのための準備期間だと思って過ごしてほしいんだ」
「でもそんなの、誰も許さないわ、婚約破棄だなんて、どうして」
「破棄じゃない、解消だよ。俺たちは円満に離れるんだ。誰かが許す許さないは関係ない、あなたがこの計画を望むならそれ相応の理由は俺が用意する、真依さんが謂れのない責めを負う必要はない」
「もし運良く解消になったとしても、どうせ連れ戻されます、私はあの家に逆戻りよ」
「この婚約が持ち上がったとき、ご家族は真依さんに意見を求めた?」
 心臓が強く痛んだ。思わずこらえるように顔をしかめるが、痛みは和らいでくれない。この痛みの唯一の理解者であったはずの姉ももういない。あの場所に真依の味方は誰ひとりいなかった。いや、初めからそんなものはいなかったのかもしれない。底冷えした廊下、無関心な家族、あの家は牢獄でそして同時に真依の世界のすべてだった。あそこで投げつけられた言葉は過去にならず今もなお真依の世界を構成するものの一部になっている。逃れられない痛みのなかでせめて肩寄せ合い生きてきた片割れの姉だって、本当は真依さえいなければ……──
「誰もがこの婚約であなたをどう利用するかだけを注視していたはずだ、あなたに興味も関心もない。彼らがあなた自身をまっすぐに見たことがいままであったかな?」
「あんたに何が分かるのよ!」
 静寂。ごとりと鈍い音。床にシルバーが落ちている。店内の客たちは真依を気まずそうに一瞥したのを見て、初めて彼女は自分が今立ち上がっていることを理解した。耳の裏がゴウゴウとうるさい、大量の血液が身体を行き来しているのを感じる。目の前の男がただ殺したいほど憎かった。
「真依さんの怒りはもっともだよ」
 何が分かるというのだ? 恵まれた身体、恵まれた才能、恵まれた血筋、男の身である名前に、この世に生まれ落ちた瞬間から蔑まれた真依に降りかかった呪いなど理解できない。肉を断ち骨を蝕むこのどす黒い感情を、誰からも祝福される生を受けた人間に、どうして。
「生まれたばかりの私を取り上げた産婆は悲鳴を上げたわ。“女”の“双子”だった私たちは二目と見れない醜悪な生き物だった、忌むべき怪物だった」
 よろめくように再び席に着いた真依が絞り出せたのはたったそれだけだった。それが真依の持ちうる全てだった。
「双子の生まれたばかりの子どもを怪物と呼ぶことになんの疑問も持たない人たちに、あなたが一生仕えていく必要なんてない。本当に醜悪なのはそう思い込ませる彼らだ」

 結局予約していたコース料理の最後までたどり着くことなく2人は店を後にした。取り乱した真依を落ち着かせるために名前がドライブを提案し、フランスで修行したとかいうシェフのミルフィーユパイを少し楽しみにしていたはずだったが、真依はその提案を了承した。最早そんな気分にはなれそうにないことは明白だった。
「25歳の女性と新しく婚約して結婚することに執着する術師はあまりいないだろう、嫌な言い方だけど彼らのような人はもっと若くて未発達な年齢の人間を好むんだ、自分たちがいいように支配できるからね。25歳で俺と婚約解消したあなたに、俺を上回るか同等の縁談が持ち上がることはないし、誰もそれを期待しないだろう。解消するときはそれなりに抵抗されると思うけど、それさえ決まってしまえばもうあなたには彼らが期待するような利用価値はないとみなされる。反吐が出る価値観だけど今回の計画に利用するにはちょうどいい」
「でも、家を出て、どうしたらいいの」
「高専を卒業したら、大学に編入してみるのはどう? 小論と面接が中心だから普通の入試よりも簡単だっていうし、途中で進路変更した術師には案外多いよ。学歴はあって困るもんでもないしね。俺はよくある中卒だからそれこそ呪術師以外潰しが効かないけど、大卒ならなんにでもなれるんだよ。大学を卒業したらあとはみんな社会経験なんて横並びだし、大学に行かなくても御三家や高専のフロント企業とかに入社して数年分とりあえずの形で職歴つけるのもありじゃないかな。うちで良ければ口利きできるし」
「そんな人生、考えたこともなかった……」
「俺は中卒だけど、あー……学歴上そうなだけで小学校もろくに通ってなかったし、集団生活って経験したことないんだ。だから真依さんや憲俊くんが高専に行ってるの見ると眩しいなって思う。自分が出来なかったからもあるんだろうけど、経験したいことは経験するべきだと思うし、俺はその手助けがしたいんだ。社会って思ってるよりずっと広いよ、今いる場所が息苦しかったら別の場所に居場所をずらすのもありなんだよ。それは卑怯なことなんかじゃない」
「どうしてそんなに同情してくれるんですか? 私以外にもそんな人いくらでもいるのに」
「あなたが目に止まったから」
「ひどい人間だと自分だと思うけど、あなたのことが目に止まって、それから離せなくなった。自分ができることなら何でもしてあげたいと思ちゃったんだ。理屈じゃないから説明しにくいけど、ごめんね」
 テイクアウトしたコーヒーが手の中で揺れる。店の前で車を止め飲み物を買ってくるよと言った名前に、真依が新作のカスタムを頼もうとしたが、名前が覚えきれなかったので無難な飲み物になってしまった。あからさまに申し訳なさそうにカップを差し出す彼に沸いたのは怒りにも似た理不尽な感情だった。なぜこんなに女である真依に傅くのか、甲斐甲斐しくコーヒーなど買ってくるのか、意味不明な注文をするなとなぜ怒鳴り散らさないのか、真依には名前が全く理解できなかった。ドリンクを片手にたどりついたのは海辺の公園だったが、真依がふと寒いと漏らしたので2人はすぐに車に引き返した。せっかく連れてきてやったのにと悪態をつかない名前は、後部座席からブランケットをだして真依の膝に掛けた。
「ほんとは前に歌姫さんもいるときにこの話もしようと思ってたんだけど、ちょっとこれ以上燃料投下しちゃうと俺が火達磨になるどころではすまなさそうだったから……」
「まあ、たしかに……」
 真依が名前の提案を受け入れただけでひどい取り乱しようだった歌姫がこんなことを聞けば喫茶店が火の海になったとしてもおかしくはないだろう。思わず苦笑した真依に名前はゆっくりと言い含めるように切り出した。
「だから勿論、これは今すぐ真依さん一人で決めなきゃいけないことじゃない。家に持ち帰って、歌姫さんとか真依さんが信頼できる人たちとしっかり相談して、俺にまた改めて返事をしてくれたらいいよ。したいことが増えたっていいし、俺にはその全てに応える用意がある。返事も急いだりしない、真依さんが納得できる形にしたいんだ。真依さんがしたいことすべてを叶えてあげたい、あなたがしたくないことはしても意味がないんだよ」
「私が結婚したいと言ったら?」
 名前は微笑んだ。
「真依さんの思うままに」
 名前の運転する帰りの車に揺られながら、真依は彼の言う相談するべき相手について考えていた。まず東堂は避けたほうがいいということだけはわかっていたが、それ以上何も浮かばなかった。しばらく悩んで、姉に婚約したことだけを知らせる短いメッセージを送った。既読はすぐについたが、返信は結局ないままだった。

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