轟音が響き、びりびりと空気が震える。がれきが倒壊した音にしてはいやに生々しかった。少年は音のした方向を振り返ったが、周囲の同級生に気が付いたそぶりはない。何かがおかしい。拭いきれなかった奇妙な違和感がいままさに確信になろうとしていた。やはりここに来るべきではなかった。
「早く帰ろう、大人の声がした」
 そう囁くと全員の顔が凍り付いた。それはそうだ、時刻はまだ10時とはいえ無断で中学生だけで廃墟まで来ていたのだ。見つかっていいことなんてない。極力音を立てないように来た道を走る。最初から気乗りしなかった子供だましの集まりに何故来てしまったのか、顔をしかめながら最後尾の少女の腕を抱え急ぎたてていた。一秒でも早くこの場を去る必要があることを本能が理解していた。
 バキバキと乾いた木の折れる音がする。不気味な抗いようもない気配が膨れるのを背中で感じて思わず振り返り、彼は後悔した。見なければよかった。迫りくる実態のない靄のような大きな影が立てるあの音は死の音だったのだ。鼻につく腐臭が体にまとわりつくのをはっきりと感じ、胸元から嫌悪感がせりあがった。反射的にそれを拒絶しようと腕を振り払った刹那、閃光が爆ぜ温かい液体がぱたぱたと顔に落ちた。そして激痛。

 気が付くと少年は見知らぬ病室で水をかぶっていた。濡れたTシャツが首筋にまとわりついて不快だった。
「初めまして、七海君。私は名字です、荒っぽい起こし方でごめんね。なにせ時間がないものだから」
 気絶した七海にコップで水を掛けて叩き起こした若い女は名字と名乗り、七海の右腕を取った。どれくらい眠っていたのだろうか、身体がひどく怠いが、寝すぎたせいではなさそうだった。窓の外は黒く塗りつぶされており、気を失う直前に脳にこびりついたあの恐ろしい音を思い起こさせた。
 女は無言のまま七海の裾をずり上げ、七海はその時初めて自分が患者服に着替えさせられていることに気が付いた。骨を腐らせるような熱を帯びた傷にうずくような痛みが走る。腕の表面には不気味なみみず腫れが這っているが、これがただの外傷ではないことをはっきりと主張していた。
「ひどい吐き気がすると思うからこの袋を持っていて。意識だけは失わないでほしいんだ、ごめんね」
 女は七海の背を覆うように立ち、七海の右腕に自分のそれを重ねた。女の息を詰める音が耳の後ろをかすめると、七海の唇の端から唾液が滴り落ちた。握らされたビニール袋を咄嗟に口元に引き寄せるより早く吐しゃ物が寝台に広がり、すえた悪臭が病室に漂った。身体の内側を何かが這い回り、不気味な感触が皮膚の下を何度も往来した。絶え間ない不快感に、自由の効く左腕で胸を力の限り掻きむしり爪の間に血が滲む。途切れない唾液が指を濡らしていくが、内側の不気味な気配は消えない、早く出ていけ、目の裏が熱い、この身体から出してくれ……──。
「腕が、腕が……」
「大丈夫、大丈夫、ごめんね怖いよね、大丈夫だよ……」
 腕に目を落とすと、みみず腫れが七海の皮膚の下で膨れ上がり、まるでそこに本当に生き物がいるかのようにのたうち回りながら指先を目指していた。あまりの醜悪さに右腕が引きつり、距離を取ろうと思わず反った背が女の胸に当たった。見知ったはずの自分の身体が今まさに知らない存在に置き換えられていく感覚に、七海は再び嘔吐した。女の細い指が七海の両目を覆う。
「ごめんね、怖いから見なくていいからね。大丈夫、すぐ終わる、すぐ終わるよ……」
 それでも七海の視線は昆虫標本の針のように腕に深く突き刺さったまま動かなかった。指の間から漏れる視界では、ソレは七海の手の甲を突き破ろうと一層暴れており、女の手のひらがその上から強く押し付けられている。七海の指の間に細く白い指がきつく食い込み、ぶるぶると震えていた。七海の背を覆っていた女がこらえるように身体を折り曲る。帳のように落ちてきた長い髪が七海をすっぽりと覆った。極限にまで高まっていた苦痛と不快感が指先で破裂すると腕が燃え上がるように熱を帯び、判別できない母音まじりの嗚咽が口から漏れ出した。徐々に狭まる視界の中では、七海と接していた女の皮膚が大蛇が潜り込んだかのように大きく膨らみ赤黒く変色したのが映った。痛みの余韻で熱くしびれている右腕がまるで他人事のように遠ざかっていく。いつの間にか窓を超えて押し寄せていた夜は七海の瞳を覆い、彼は再び意識を手放した。

「おはよう、七海君」
 七海が次に目覚めたのは翌日の昼過ぎのことだった。昨夜のことはまるで夢だったかのように右腕には傷ひとつなかった。七海が目覚めたことに気づいた女──名字と名乗った──はナースコールを押し、起き上がろうとする七海を再びベッドに押し戻した。慌ただしくやってきた白衣の集団が七海のまぶたをこじ開けてペンライトをあちこち動かしたり、関節の様子をあれこれ調べ終わるまで名字は壁沿いに立って一言も口を開かずに七海を見つめていた。身体中をまさぐられながら、七海は本能的に己の身体に何一つ問題がないことを理解していた。ミョウジの腕にもみたところ特筆すべき変化は感じられない。患者服もシーツも染みひとつなく、昨日の恐怖や痛みを証明するものはもはやこの病室にはどこにもなかった。けれど七海は同級生と廃病院に肝試しに出かけたはずだった。でなければ今頃こんなところで眠っているはずなどない。
 普段は古い土地や建物の調査をしてるの、と再び二人きりになった病室で名字は切り出した。「古くて価値のあるものや危険なものを保護したり取り除いたりする活動といえばわかりやすいかな。七海君たちは私たちがあの廃病院で行っていた調査に巻き込まれてしまった。本当なら調査中は危険だから一般の人が入ってこないようにしているんだけど、私たちの確認が甘くてもう君たちが病院に入っていることに気が付かず七海君たちごと場所を封鎖してしまってたの。これは私たちの過失で、七海君たちのせいじゃないよ。危険な目に合わせてしまって本当にごめんなさい」
「あの、他の子たちは」
「他の子どもたちは全員無傷だった、七海君が帰るように言ってくれたおかげだよ。もう親御さんには連絡していて朝には全員帰したし、七海君のご家族も別室で待ってるから今日にはちゃんとおうちに戻れる。肝試しの話も乗り気じゃないのについて行ってあげたんだよね、みんながそう言ってた。それはとても勇敢なことだよ、君はとても責任感があるね。彼らが全員無事だったのは七海君のおかげ」
 名字はベッドのそばで膝をつくと七海の顔を見上げ、そこで口をつぐんだ。
「あの夜何かを見たり聞いたりしたでしょう、そういうことはいつからあったかな? 大丈夫、私たちの中では割とよくある話なんだよ」
「……小さな話し声ともやもやしたものがたまに見えるくらいで、あんなにはっきり感じたのは初めてで……でも、今まであそこも何度か近くを通って、すごく嫌な気持ちになる場所だったから、それで……」
「そっか、だからついて行ってあげたんだ。危ないって分かってたのに優しいね」
 押し黙ってしまった七海の手を取り、そっと上から握る。年頃らしく節ばっているとはいえ、女の#name1#の手のひらよりもさらに一段小さなこぶしだ。
「ああいうものには、小さいけど簡単なルールがいくつかあるの、さいころの向かい合う両面を足すと7になるとか、10円玉と1円玉を重ねて落とすと必ず1円玉が下になって落ちるとかそういう小さないくつもの規則性に則って動いてる。こうするとああなるってルールがあるってことは逆に言うと、ああするとこうはならないっていう避けるためのルールもあるってことなの」
 そんな理科の実験や科学読本のようなことがあるだろうか。あの夜七海たちに追いついた気配は全てを超越した存在に思えた。リンゴが地面と引きあって落ちることとは到底比べられない。そんな七海をよそに、名字は鈍い銀の缶を取り出し、七海の手のひらを広げさせる。幾重にも折り重なった荒縄の難解な結び目を解くように七海の隙間に細い指先が入り込んで、少年らしい紅葉が弱々しく花開く。#name1#は缶の中身をその上に押し広げた。煙たい薬品のような匂いが鼻を掠め、思わず顔をしかめる。乾いた木片を細かく砕いた粉のようなものが指の間からこぼれてシーツの上に転がった。
「この粉を週に一回くらいでいいから手にもみこんで。ほんとはお風呂のあととかがいいけど、漢方の材料とか使ってて匂いが独特だから、予定のない週末とか寝る前とか人に会わなさそうなときでいいよ。いやな感じがするなと思ったら、毎日しても大丈夫だけど、逆に2週間以上期間が空くとよくない。もみこんだものはそのままごみとして捨てて。いまはぼんやりと見えるだけかもしれないけど、今回のことがきっかけになって、どんどんはっきりした姿が見えてくるようになっちゃうと思う。そうなったら外出るときはこの眼鏡をかけて過ごすと楽かな。ああいうのは目が合うと刺激しちゃうし、見た目が怖いから視界に入ったらどうしても緊張しちゃってこっちが見えてることに気づかれちゃうんだ。このレンズを通してみれば見えなくなるから普通の人みたいに過ごせる。でも気配まで完全に感じなくなるわけではないから、今回みたいな“いやな”感じがしたらそこは絶対に避けてね。低級呪霊はさっきの粉の匂いを嫌がって逃げてくれるけど、あまりにも等級が高すぎると効かない」
 まるで悪い夢のようだった。名字のいうことは馬鹿げた世迷言のようだ。それでも、七海があの夜肌で感じた痛みも同様に覆しようも無い事実だった。言葉を失った七海に名字は極力明るい声で「百聞は一見にしかずだよ」と声をかけた。
「これは見える?」
 名字が人差し指を立てると、指先の空間が丸くかげろうのように淡く揺らめいる。
「なんとなく、何か揺れてます」
「じゃあ、そのまま眼鏡をかけて」
 手渡されたそれを恐る恐るかける。耳の淵にあたった銀のフレームがひんやりと冷たい。
「……なにもみえない」
「でしょう?」
 説明は受けていたがどうしても信じられず、何度か眼鏡を付けたり外したりを繰り返す。レンズ越しに視線を投げたあと、眼鏡をかけたまま裸眼で見ることもした。何度試してみても眼鏡を通して見えていたあのぼんやりとしたものは見えなかった。
「けがのことだけど」
「はい」
「これは、あの場所にいたものがつけた傷じゃないの」
「……はい」
「七海君の中には、昨日七海君を襲ったものと似たような力があるの。その力が君に危険な場所や嫌な感じを教えてくれたけど、これからはもっと大きな力になって制御しきれなくなることもある。それはある日急にやってきて七海君や周りの人を傷つけてしまうかもしれない。でも絶対に七海君のせいじゃないよ、身体の成長痛と一緒で急激な力の成長にいろんなことが追いついて来ないだけなの。七海君にだけ起きる特別な出来事じゃなくて、私たちにはよくある、ごく普通のことなんだよ」
「化物になりたくない」
 ずっと恐ろしかった。視界の端にうごめくものが、耳元で囁く彼らが。だから気づかないふりをしてきたし、何も見えないと思い込もうとしていた。けれどあの夜遭遇したものが、もうすでにこの身体に入り込んでしまっているなら、それは逃れようのないことだった。あの夜のように身体を食い破られる日が来ることに怯えて生きていくしかない。
「化物なんかじゃない、七海君の力は他の子たちを助けたんだよ」
 名字はいつの間にか震えていた七海の手を握り込んだ。
 第二次性徴で教室の誰よりも早く大きくなっていく身体を名字はやすやすと抱きかかえ膝の上に乗せる。薄くて冷たい手のひらが顔を覆ったと思うと、つるに指を掛けられ眼鏡を外される。昨夜のことで疲れ切っていた身体は恥ずかしさで身をよじることさえ許さないほど硬くこわばっていた。されるがままの七海をいいことに名字は目の下へ指を這わせ、頬を親指の付け根でさする。曲げた指の関節は顎下に入り込み、よどみを押し流すように何度も首筋のあたりまで行き来した。自分の膝のあたりを見つめていたが顔をぼんやりと上げると、名字の視線とぶつかった。名字は目をそらさずわずかに口元を緩めて微笑むと、小さな子供をあやすように七海の耳たぶの縁に触れやわく揉んだ。ずっとふれあっていたはずの皮膚がとても熱いことに気が付き、冷えきっていたのは彼女の手ではなく、自分自身の身体だったことをようやく理解した。なにもかも整合性が取れたかのようにしこりはほどけ瞬きと共に押し出される、そしてそれは涙の形をしていた。
 首筋に名字の手のひらが回され、肩口に顔をうずめるように力をこめられる。そのまま人形のように彼女にしだれかかった。鼻筋や顎を伝って重力の通りに流れる涙は冷め切らないうちに彼女のシャツの襟口や首を濡らしていく。せめてそれを手で拭おうとすると、名字の手が七海の手首をつかみ、そのままベッドに押さえつけて下げさせてしまった。
 力無く泣き続ける七海を抱きながら、名字は彼の少年らしく節っぽい指を確かめていた。

 しばらくして名字名義の小包が七海宅に届いた。箱を開けるとあの日以来嗅ぎ慣れてしまった漢方薬のようなにおいがした。両親になんと釈明しようかと頭を悩ませていたが、当人らは不審がることもなく律儀な人だといそいそとお礼の電話をしようと準備をしていた。あの後疲れ切って再び眠ってしまった七海は、結局彼女が両親に何をどう説明したのかは知らなかった。しかし同封されていた名字の名刺には都内の大学院の客員研究員と書かれており、両親が名字をすっかり信用してしまっていた理由をなんとなく理解した。名刺に薄い凹凸を見つけ怪訝な顔で裏返すと、何かあればここにというほっそりとしたボールペンの筆跡とともに東京都立呪術高専という聞き慣れない学校名と電話番号が裏書きされていた。

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