向かいの窓には代わり映えのしない山がただだらだらと視界の端から端まで途切れることなく流れ続けていた。空には雲ひとつなく、窓から差し込んだいっぺんの陰りもない陽光が狭い車内を満たしていた。田舎の一両編成の列車はシンプルで好きだ。そこに走行するために必要なものすべてが詰まっており、不要なものは一切ない。それはつまり欠けのないひとつの世界そのものだった。
 私は東京の地下鉄のことを思い出した。温度を持たない顔の群れが互いに触れ合わないようぎりぎりの距離に配列され、薄暗い窓に反射している。生臭い二酸化炭素を溜め込んだ車両は、小刻みに停車してドアを開閉するが、新鮮な空気を取り込むには不十分だった。窓の外では等間隔で設置されたトンネルの明かりが高速で現れては消えていき、いつまでもその光の断片が脳の裏でチカチカと刺さったままだった。

「切符を拝見します」
 顔をあげると、目の前に男が立っていた。たぐっていた線路は海岸線に到達したのか、窓の外はいつの間にか青色に移り変わっている。車両の接続部分を見ると、ガラスをはめ込んだ扉の向こうには同じ作りをした車両が幾重にも折り重なっているのが見えた。三面鏡の両端を引き合わせたようにその先に際限はなく、まるでここを起点にこの細長い空間が延々と広がっているかのような錯覚を覚えた。先に行くほど細まっていく床は穏やかな楕円を描いており、この列車が地表に沿って緩やかに這い進んでいることは明白だった。
「今どき珍しいですね、検札なんて。すみません、ICカードなんですが」
「必ず切符があるかここで確認する決まりなんです。だからここにいるということは切符があるはずです、必ず持ってますよ」
「そうですか」
 荷物と言ってもバッグも財布も何も持っていなかった。切符を持っているなど到底思えなかったが、私は男の言葉通りパンツのポケットに指を差し込んだ。男は私が切符を持っていることを信じて疑っていないようだった。
 男は焼け焦げた煤っぽい臭いがして、よく見ると左目はほとんど焼け落ちていた。眼球は溶け出したのかそこはもうほぼ穴としか機能していなかった。一方で清潔なシャツは爛れた首元まできっちりと止められており一列に並んだ白蝶貝のボタンが光っていた。今にも崩れそうなほど脆く黒ずんだ腕を覆う白手袋にもほつれひとつなかった。私は彼の身体に点在するその赤黒い皮膚と白の対比を見ているとなぜだか妙にうんざりするほど疲れてしまった。
「どこに行く予定なんですか」
「ええと、海を見ようかと」
「いいですね、この時期は日本海に比べたら太平洋はまだ穏やかですし」
「いえ、もう少し暖かいところを考えてます」
「瀬戸内海ですか、あそこは年中気候がいいですから」
「もっと、暖かくて透明度のある海が」
 例えば、と言おうとして言葉が止まった。その時初めて、私自身は特段海になんて興味がないことに気がついた。私は海に行きたいと思ったことはなかった、海は長い間もっと別の誰かのものだった。私はずっと前から海の持ち主である人の夢が叶うことを願っていたはずだった。
「アナタがここに来るとは思いませんでした」
「なぜですか?」
「全部私が持っていったからです」
「でも、いまここにいます」
「アナタには不要だと思った、なにかひとつでも残しておいて足枷になるのはごめんでした。でもそれは間違った考えだったようだ。アナタに少しお返しします」
「はあ」
「アナタのものは、私が持っていきます。もとよりまだ渡していませんでしたし、私にもなにか記念になるものくらいほしいですから」
 男は私の手を取りながら、ジャケットの内側から何かを取り出そうとした。私は男の顔をよく見ようとしたが、窓から差し込む逆光は彼の頬に大きな影を落とし、彼の表情はうかがいしれなかった。彼の背負う水平線が遠くで白く光っているのだけがはっきりと見えた。
「これは足枷じゃない、アナタをあの世界に繋ぎ止めておくためのいかりです」

 枕木を車輪が叩く音が聞こえる。気がつくと古ぼけた単行列車が無人のホームに滑り込んでくるところだった。無機質な女の声がそれが上りであることを告げていた。ベンチから立ち上がろうとしたとき、太ももに食い込むなにかに気がついた。ポケットから取り出したそれは、黒く変色した指輪だった。

- ナノ -