「名前さんってどういう人なの」
「何度か話したことはあるだろう、あのままの人さ」
「そうじゃなくて」
「そういえば婚約おめでとう、君が加茂家の一員になるなんて考えてもみなかったな」
 宣う憲紀に、真依はもう一度「そうじゃなくて」と青筋を立てた。この男、自分のペースでしか話さないのだ。高専にはまともな男がいなさすぎる。唯一会話が成り立つのは1つ下の新田くらいだろうか。なるほど歌姫はこういう気持ちで名前のことを見ていたのかもしれない、それならば確かに随分マシな部類だろう。真依はため息を吐いた。
「婚約なんて急すぎて何をしたらいいのか分からない」
「その年で今まで一度も婚約者がいないのは確かに珍しいな、まあその術式だ無理もないか」
「いちいち腹立たしい人ね……」
 真依の不快そうな顔を気にも留めない憲紀には複数人の婚約者候補がいる。下は術式が判明したばかりの7歳から上は21歳まで、総勢何人だか知らないが、忙しい任務の合間を縫い週末などを利用しては方々に出かけていることを真依は知っていた。上の年齢がさほど高くはないのは出産を考えてのことだろう。しかし7歳で加茂家嫡男の婚約者候補に引き立てられるとはよほど術式がいいと見える。生まれ持ったモノが悪ければ見下され、良ければ交配馬のようにやり取りされる。全く女の身には素晴らしい世界だ。忙しなくあちこちの雌しべの様子を見に出かける憲紀を見ては、7歳ですることと言ってもせいぜいおままごとくらいだろうとせせら笑っていた真依だったが、まさか自分が悩むことになるとはつゆほどにも考えていなかった。
「名前さんにはどうして婚約者がいなかったの、あれだけの人みんな口うるさくしたでしょう」
「当然いたさ、生まれる前から決まっていた人が一人だけ。随分長く連れ添っていたようだが結局破談になった。理由は知らないがかなり揉めたみたいだぞ」
 生まれる前から親同士が決めていた許嫁がいることはさして珍しいことではないが、その他の候補がいないことはかなり稀なことだった。呪術師の命は儚い。家と家の約束は血より重いが、当事者が死んでしまえばその履行も不可能になる。加えて人間の生殖機能は加齢に伴い年々衰えてしまう、限られた時間を無駄にせず有意義に次世代に費やすための保険制度であり、保険を掛けていなければ、名前のように空白の期間が生まれてしまうのだ。それは産めよ増やせよを訓育としてきた御三家にとって最も避けたいことだろう。
 縁談がまとまらないことは恥だ。それも名前のような加茂家中枢部から、他の婚約候補を探さないという義理立てまでされておいて破談してしまうとは、その家門が断絶したとしてもおかしくはない。憲紀は詳しいことを知らない口ぶりであったが、よほどのことが起きたのだろう。相手方の家族はそれ以来見ていないと言う。加茂家としても隠しておきたいことであり、嫡子の憲紀といえども秘匿されたのだろう。名前も軽々にそういったことを話す質とも思えない。収穫はなしかしら、と真依はひとりごちた。結局名前についてわかったことはなかった。
 条件はいいものの、いわゆるキズモノのいわくつき物件になってしまった名前は、本人がその後乗り気でなかったこともあり、次の縁談の話は長く宙吊りになってしまっていた。本来であればあの年齢の男が未だに家庭と無縁に過ごしていることなどありえないのだ。無論五条悟のようなワンマンプレイを許される人間であれば話は別だが、名前は良くも悪くも従順だ。あの男は歌姫に詰られても困った顔で笑っているような無害さを持ち合わせていた。それは才覚と血筋だけを指針とする呪術師には珍しい気質だった。少なくとも禪院家においては真依が直哉にあのような口を聞けば頬を張られているのは疑いようもないことだった。
「気負うこともないさ、婚約してるといってもできることなんて限られている。ことさら、“婚約”なんだ。せいぜい食事くらいなものだ」
「ふうん、7歳とウサギさんのリンゴでも旗付きの楊枝で食べてるわけなのね」
「プリキュアも見るぞ、初めて見たが案外悪いものじゃない」
「……名前さんが7歳じゃなくて27歳で本当に良かった」
 己の結婚のために日曜日の朝から特撮を見せられるなんて悲惨すぎる。
 憲紀の言うことにも一理あり、婚約をしたからと言って、晴れて恋人となるわけではない。そこには明確な線引きがあり、両者はその均衡を保つことが求められる。これは家同士の契約なのだ、一線を超えることは相手の家だけでなく自分の家門に泥を塗ることになる。
 婚約者を得た者の行動は大きく2つに分けられる。より慎重な行動を求められるか外で大きく羽目を外すか、前者は主に女であり、後者は男にしか許されないものだった。婚前交渉を忌む一方で婚外子を推奨している御三家において、それは当然のことだった。種をばら撒くことも重要な“務め”なのだ。真依はあの家で物陰に隠れて泣いている女達の姿を嫌というほどに見てきた。最初から割り切ってしまえば、名前の言う25歳までは穏やかに過ごせるかもしれなかった。どうやら名前には真依と禪院家の間に割って入るつもりがいくらかあるようだ。真依さえ望めば、煩わしく陰惨な呪術や家と距離を置き普通の女のように生きていけるかもしれない。それはまさに青天の霹靂だった。己を閉じ込める鳥かごを恨んだことさえあれど、まさかその扉をこじ開け真依を解放しようとする者が現れるなど誰が想像できただろうか。勿論、その自由は期限付きのものだ、羽を伸ばせるのは25歳まで。その先はまた別の地獄に行くだけの話だ。元いた場所より少し違う形の鳥かごの居心地はわからない。
 婚約の申し出を名前から直接受けたあの日、歌姫の荒れようはすさまじいものがあったが、当の名前は飄々としていた。個人の連絡先を交換したが、あの後真依のもとに届いたメッセージは申し出を受けてくれたことへのお礼と次回の食事の約束のみだった。日曜日京都高専11時集合13時解散、店は名前が予約するそうだ。真依が少し硬い短い文章を2時間かけて打ち込んだが、すぐに既読が付きスマホを落としかけた。しかしそんなことは少しも知らない名前からは「楽しみにしてるね」という返信とともにふにゃふにゃした犬のイラストのようなスタンプが送られてきた。しばらく悩んで、スタンプは送り返さなかった。名前の趣味で持っているスタンプなのかどうかが妙に気がかりだった。
 しかし、それ以来名前のトークルームは沈黙を保っているため、その答えはいまだに得ていない。それどころか見返そうとすれだけでも随分スクロールしなければ見つからない位置にまでずり落ちていた。真依から何か連絡すれば、きっと返信があるのだろうが、さりとて真依にも特別名前に伝えたいことなどなかった。聞きたいことはいくらでもあるが、きっとうまくかわされてしまうだろう。名前は禪院家の人間よりよほど真依のことを尊重してくれるように見えたが、どこまでも誠実というわけではないのはわかっていた。名前は何か隠している。そしてそれはあの初めての合同任務に起因していることは明らかだった。
「ねえ、私が元婚約者に似てるってことはあるのかしら?」
「俺が小学生の頃だったから顔は覚えてないが雰囲気はあまり似てないな、背も低くて大人しい女性だったよ。君はいちいち態度が棘々しすぎる」
「ああ! そう!」
 真依は今日何度目かの青筋を浮かべた。

 私服姿で現れた真依に「ブラウスかわいいね」とこともなげに言った名前は助手席のドアを開ける。悩みに悩んだコーディネートは履きなれたパンツスタイルに落ち着いた。名前が予約したというレストラン名で調べると、しっかりとしたドレスコードが規定されているわけではないが、価格帯から見てあまりフランクな服装で行くのもはばかられる。年齢を考慮すると学生服で行くのが無難だが、真依の制服のカスタムは少し威圧的すぎ、周囲におかしな誤解を与えたくもない。そもそも婚約して初めての二人きりの食事だった。ヒールのほとんどないパンプスに、裾を絞ったタイトめのパンツ。ブラウスは体のラインをあまり拾わないプリーツを選んだ。名前の身長は男子と並んでもさほどそん色のない真依と比べてさらに高かったが、この背丈で家族から心無いことを言われなかったわけではない。なんとなく、スカートは選ばなかった。
「真依さんは高専続ける? やめたい?」
 俺はやめたいならそうしてもいいと思うんだ、と続けた名前の横顔を真依は二度見した。名前は京都の道での運転に慣れているのか、タクシーやバスなど観光客で混雑する大通りを避けて裏道をすいすいと進む。整理された碁盤の目と聞くにはいいが、代わり映えのない画一的な道をナビも見ずに運転するにはある程度の経験が必要だろう。
「……どうしてですか?」
「あ、真依さんさえよろしければ敬語はやめようよ。せっかく婚約したし、フラットな関係でいたいんだ。歌姫さんがすごくうるさいしね……」
 歌姫はあれからも介入を続けている。今日の食事だってさっさと帰ってくるように真依に何度も言い聞かせてきた。「口車に乗せられんじゃないわよ、ああいう人種は総じてカスだからね。顔がよくても中身は腐りきってんのよ、五条悟がいい例だわ……──」自分から指導役に推挙したというのに、真依の一件で名前はかなり株を落としていたようだった。人懐っこい丸い額や無害そうなたれ目を否定したいわけではないが、名前はやはり不気味だ。話していると見た目通りの印象を与えるが、その意図が全く分からない。
「理由かあ、俺は高専に通ったことがないからわかんないけど、授業と任務があって大変なんじゃない? 任務の方だけ辞めたいとかでもいいし」
 でも同級生の友達って羨ましいなあ、とうんうんとうなっている。今すぐにでもやめさせたいわけでもなさそうだ。つくづくこの男は本心が読めない。任務は危険で、多少の金になるとはいえ避けたいことも事実だった。しかし、高専をやめてどうする? あの狭くて苦しい檻のような実家に帰るのは耐えがたい苦痛だった。いまなら任務と授業をこなしながら時折呼び出される実家の行事に顔を出すだけで済んでいる。先に任務が入っていればよほどのことでない限り断っても強く言われることもない。それに数少ない同性の術師に囲まれて過ごすことはいくらかの気休めになった。
「やめて実家に帰るのは、ちょっと」
「え、一人暮らしすればいいよ。俺がその辺ちゃんと用意するし。そういえば寮生活ってどんな感じなの? 俺17くらいで一人暮らしはじめちゃって高専にも行ってないからわかんないんだよね」
「楽しいですよ、みんなで夜食食べたり、買い物したり……」
「ウワーすっごく高校生っぽい。いいなあ、そういうの俺もすればよかったな」
 真依の脳裏に桃や霞の顔が思い浮かんだ。鬱陶しい一つ上の男たちもいるが、真依を心から憎んだり侮蔑したことは一度もなかった。歌姫も口うるさくしているものの結局のところ真依を心配した結果だった。真依は本当の屈辱や憎悪を知っていた。あれはもっと心臓が凍るようなことを平気でしてのけるのだ。そして彼女のことをちっとも顧みることなんかない。真依はいつだってそれが通り過ぎることを息を止めて待つことしかできなかった。ただ耐え忍ぶことだけが、彼女の持ちうるすべてだった。
「……やっぱり、学校には通いたいです。いやなことも多いけど、みんなといると楽しいから」
 そっか、とだけ返した名前はもうすっかり興味を失ったのか「敬語なかなか治んないね」と笑ったきりこの話題には触れなかった。

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