「サプラーイズ!」
五条の軽薄な声と共に開け放たれた引き戸の向こうに、七海は懐かしい人の姿を見つけた。確かに驚きだろう。本来であれば七海から一番に連絡をしなければならない人だった。
「お久しぶりです」
眼鏡のブリッジを上げようとして、そんなものはもう何年もかけていないことに気が付いた。どうにも学生時代のころに気持ちが戻ってしまったようだった。
七海がなぜ名字名前に連絡をしなかったのか。それは単に彼女の連絡先が変わっていたということに尽きる。高専を出て4年、七海は一度も連絡を取らなかったし、それは名字も同じだった。学生時代はひときわ目をかけられていたと甘えや驕りではなく自負できる七海だが、名字が新しい連絡先を七海に伏せたことは当然のことだとも考えていた。一度去ると決めた人間のことは振り返らない、実に七海の知る彼女らしいやり方だった。
「七海君、帰ってきたの……」
だからこそ、七海はこんな風に傷ついた顔でうつむく名字など知らなかったのだ。
「……ハイ、ご報告が遅くなってしまいすみません。もっとはやくご挨拶に伺うべきでした」
「いや、私も連絡先を変えてたしここのところ外で仕事をしてたんだ。高専に来るのも随分久しぶりなんだよ、また会えてうれしいな」
こわばった顔を上げて名字は微笑み手を差し出し、七海は握り返す。名字の乾いた指がずり、と七海の手のひらの側面を滑る。七海を見上げる瞳の奥はまだ暗いが、精いっぱいの友愛を示そうとしてくれている。記憶よりもいくらか薄っぺらい手のひらに、七海は違和感を飲み込んだ。彼女が戸惑うのも無理はない、二度と会わないと互いに思っていたのだ。なんせ4年も籍を外していた、変化に戸惑うことは当然だった。七海の背だってほんの少しだが伸びたし、手のひらに出来ていたはずのマメだってやや柔らかくなっていた。身長は元には戻らないが、マメはきっと以前より厚くなるだろう。積み重ねていけば取り戻すことができることだ、そう自分を奮い立たせた。
「どーよ名前さん。五条悟プレゼンツ感動の対面は」
「悟君はほんとに人を驚かせるのが上手いね、ほんとにびっくりしちゃった。今日高専に来てよかったよ。こんなにいい知らせを聞けるなんて」
名字は呆れた顔で五条を振り返る。そこに少しの緊張と安堵を見つけ、七海は目を細めた。記憶が正しければ彼女は五条に対して若干の苦手意識を持っていたはずだ、五条がそれに気が付いているとは思えなかったが。たかだか4年では彼女の意識も変わらなかったのだろう。五条と相性のいい人間の絶対数がそもそも極端に少ないということを加味しても、長い付き合いの二人ではあれど軽薄な五条と生真面目な名字の性質はそううまくかみ合うものでもない。記憶の中の名字は五条の奔放な振る舞いにいつも手を焼いていた。更に悲劇的と言えるのは五条が周囲からの嫌悪に無自覚だということだった。
しかし、連絡する手段を失ったとはいえ、七海にとって名字はいずれ会わなければならない相手だった。この時ばかりは無神経で軽薄な五条のタチに感謝するほかないだろう。
「失礼、外での仕事とは」
「え? ああ……いまは一級術師じゃなくて特別一級なんだよ。家の仕事ばっかりしてる」
「早く寝返っちゃいなよ、おじいちゃんたちの介護なんかつまないデショ」
「ははは、簡単に言ってくれるねえ。最近は汚れ仕事ばかりでいやになるけど、仕方ないよ」
五条は名字の手を取り「冗談じゃなくてさ」と顔を近づけた。
「名前さんもクソみたいだと思うでしょ。こんな風に摩耗していく術師を減らしたいし、もっと日の目を見てほしくて“改革”していきたいんだよ、だからこーやって若い有望株を集めてんのさ」
七海の肩を五条が強くはたく。ちょっと、と苛立った声を出すと、名字は何故だか少しまぶしそうな顔で二人を見つめた。
「私今年35だから若手の有望株とはいいがたいかなあ」
「結婚とかもどうせ急かれてんでしょ、よくここまで躱せたよね」
名字の左手の薬指は4年前と変わらずむき出しのままだ。指先になにかつけるの苦手なんだよね、と過去に言っていた通り他の指にも日焼けのあとはなく、恒常的に使用しているアクセサリー類はないようだった。術師の結婚は近年二極化しており、保守家系出身の術師の結婚は総じて早く、加えて術師の命は短い。布団の上で五体満足のまま何事もなく死を迎えることがどれだけの僥倖だろうか。その短い命の間により多くの種を成そうと試みるのはある種自然の摂理だった。その賛否をいまさら直接問う気はないが、相変わらずクソみたいな世界だと思っていた。七海が出会った頃の彼女も相当その話でせっつかれており、いやいやながらあちこちに出かけているようだった。学生の五条にも散々からかわれながらも一貫して煮えきらない態度をしていたが、今も変わらずその意思は揺らがないらしい。多くのことに対して比較的従順で無害な振る舞いを心掛けている名字にしては、それは珍しいことだった。七海の記憶の限りでは、名字が任務やその他のことで上層部の意向に背こうとすることはなかった。唯一、結婚に関してだけが彼女の意思を感じることができた。なぜそこまで渋るのか、その理由を尋ねたことはない。ただ、自分の意思がどうであれそれを貫くことがひどく難しい世界であることを十分承知していた七海からすると、結局10年も遅らせることが出来ているのはおよそ奇跡にも近いことに思えた。
「あはは、相変わらずほんとに無神経、勧誘する気あるの? その辺はノーコメントで。……ごめんもう時間だ、行かないと。七海君、また会うことがあればご飯にでも行こうね」
「僕はぁ?」
七海の返答も聞かないで、そのうちね、と手を振って名字は部屋を後にする。彼女付きの補助監督らしい男がその背中を追った。こちらを振り返らない後姿を見送りながらぽつりとつぶやいた。
「特別一級だなんて」
「そう意外なことでもないでしょ、あの人高専通ってないしもとはバリバリの保守派筆頭だよ。僕らが学生の頃の方が異例だったし」
今日高専に来るって言ってたから残るよう声かけておいたけどほんとに残ってくれるかわかんなかったくらいだしね、と五条は飄々と肩をすくめる。「名字さん、引き留めるの大変だったんですからね」と伊地知が半分泣き顔で五条に不満を漏らしているが、どこ吹く風といった様子だ。4年前の名字は毎週とは言わないまでも定期的に高専に出入りしていたし、用がなくても七海のもとを訪ねてはあれこれ様子を気にかけていた。七海への任務も折を見ては同行するように彼女が調整しており、術師のイロハを一番最初に教えてくれたのも彼女だった。術師としての七海にもし師のような者がいるとすれば、それは間違いなく名字名前だろう。彼女が七海に教えたことは3つ、非術師の保護、任務の迅速な遂行、そして可能な限りの自己防衛。彼女は七海が任務で傷ついて帰ってくることにあまりいい顔をしなかった。これは今も七海の指針になっている。業界の人手不足は長年による慢性的なものであり、無論4年前も彼女のような上級術師は多忙を極めていたが、会いたいと七海が言う前にはきちんと顔を見せに来るような生真面目で責任感のある女だった。
七海を探して廊下を歩く名字の姿を見つけては「飼い主が来たぞ」て五条たちはよくからかっていた。互いに古い家の生まれということもあり、五条と名字は幼少から顔見知りだったようだが、よく知っていたはずの女が今まで見たことのない顔で自分の知らない後輩に目を掛けていることはいくらか彼の関心を引いたらしい。今でこそ少しは落ち着いたようだが、当時は特に苛烈な性格だった五条の干渉は時に酷く七海を苛立たせた。名字もいつも口調こそ穏やかだったが、そうした気まぐれで傍若無人な五条の言動にはいくらかの困惑やある種の嫌悪があったようだ。一度名字にそのことを直接尋ねたことがあったが、「高専行ってないせいかあの年の男の子って何考えてるかわかんないんだよねぇ」とはぐらかされてしまった。私もですか? と聞き返そうとして、七海はぐっとこらえた。きっと困らせてしまうからだ。
名字は実戦時の対応や戦闘の組み立て方ははっきりと理論立てて指導したが、特定の物事に関しては明言を避ける節があった。そうした会話や周囲とのやり取りから名字の立ち位置が高専内でもどことなく複雑であろうことを端々で感じていたものの、それでも当時は呼び止めておくことすら難しいほどではなかった。廊下から校庭を見下ろしているとき目が合えば手を振ってくれたし、任務で怪我をした七海を医務室に送るときはいつまでもそばを離れなかった。
サプライズのために事情を伏せていたもしても、声さえ掛けておけばおとなしく待っているような人間のはずだったが、どうやら七海がいない間に事態は大きく変わっていたようだった。
特別一級術師、実力だけで言えば一級術師となんら遜色ないが、所属が高専預かりから外れるためその実態は各術師によって異なる。七海が術師を辞してからさほど時間を空けず名字は特別一級術師に肩書を改めた。それ以来、楽巌寺をはじめとする京都の上層部に出入りしているようだが、彼女がそこで具体的に何をしているのか対立する五条たちが知る由もないことだった。彼女の意思と任務の内容が必ずしも比例しているとは限らないが、名字はそこにたてつく人間でもない。そのことは七海が最もよく知っていた。気に入らないことは他人を蹴散らしてでも我を通してしまう五条が異例中の異例すぎることを改めて思い知らされる。何はともあれ、人目をはばからず親しく振舞える仲ではなくなったことは明白だった。
汚れ仕事と言っていたが何をさせられているのか、思いつく限りの最悪の想定をし、おそらくそのすべてが正解だろうと七海は脱力した。七海の知らない名字はこの4年間何を見て、何を感じてきただろうか。呪術師はクソだ、そんなことはこの世界に背を向けた日から知っていたはずだったのに。
「また会うことがあれば」名字は間違いなくそう言った。つまり、彼女の予測によると七海と名字はもうほとんど会うことがないということだ。なぜ4年間一度も連絡しなかったのだろうか、と七海は思わず自分の過去を恨んだ。いや、したとしても名字は電話に出てくれただろうか。けれど、けじめだなんて言わずに一度でも電話をしていれば何かが変わったかもしれない。術師を辞したとはいえ頼ってきた七海の電話を無視する名字とは到底思えない……──本当に? 現実として4年ぶりに帰ってきた七海を彼女は柔く拒絶した。
七海はそれが一番信じられなかった。
「クソ」
名字名前こそが、七海をこんなクソったれな世界に引きずり込んだ張本人だと言うのに。