目の前の皿に蟹が置かれていた。美しい濃い朱色をしたそれが意味するところが分からず、ぼんやりと見つめていると、ずるりと皿がひときわこちらに寄せられた。顔を上げると、正面に座っていたらしい七海が片腕で皿を突き出していた。七海はもう片方の手で蟹を器用に割ってその身をほじくり出し、片っ端から口に放り込んでいる。唇の端は汁でべたついて濡れていた。早く食えと言わんばかりにまた強く押し出され、私はゆっくりと皿の両脇に置かれていたハサミと細長い独特の形をしたフォークを手に取った。
 のろのろとまだ温かい蟹を掴み、どう解体しようか悩みながら私は窓の外を見た。空は赤く染まり、雲はちぎれながら張り付いている。眼下には黒々と沈黙した街が広がっており、およそ人の気配というものは感じられなかった。遠くで汽笛の音が聞こえたが、それは生活音というより、この大きなシステムが作動しているだけのように聞こえた。夜が明けたのか日が暮れているのかさっぱり区別がつかない。部屋の中にも時計はなく、時間が把握できなかった。窓枠の長い影だけがテーブルに落ちていた。
「七海、いま何時なの」
「別にどうでもいいでしょう、アナタ食べるの遅いですよ。次の皿が来る」
 はあ、と溜め息をついた七海は私の皿を奪い、蟹の足を次々とへし折りフォークの細い柄をねじ込んで甲羅をこじ開けた。七海の太く長い指が這いまわり、丸々と太ったはさみもあっというまに細切れにされた。
「アナタはほんとに手が焼ける」
 頭が異様に痛む。横になりたかった。七海がほぐした身と殻をえり分け、身の方だけを乗せた皿を寄越す。それを受け取り、私はその上に黒酢をこぼしながら口に運んだ。塩気を帯びたふっくらと柔らかい繊維が舌の上でほどけた。私は思わず口を覆った。強烈な吐き気だった。七海に対して言いたいことがたくさんあるはずなのに舌が硬くひきつけを起こして喉の奥を抑えつける。うまく呑み込めない。上半身が折れ曲がり、額が皿のふちにあたる。ぼたぼたと生理的な涙がこぼれ、テーブルの上に淡い染みをつくった。
「姿勢」
 私は無理やり身体を起こした。いびつな人形のように肩が奇妙にこわばっているのがわかる。ぶるぶると首の付け根が痙攣し、頭の奥に錐を埋め込まれたような痛みが走る。私は顔をゆがめたが、七海は私を一瞥しただけで何も言わずにまた黙々と蟹を分解して食す作業に戻った。その手つきはこの世で最も神聖なことしているかの如く精密で信仰深かった。私が姿勢を正したことを確認しただけで十分に満足したらしく、最早頭の端にも私のことはないのだろう。
 私はこの男が全く欠けのない善良さや世の中への従順な敬虔さを持っていることを知っていた。そういうところを深く愛していたし、同時にとても嫌悪していた。七海にとってそれはいつだって不可侵の絶対領域だったからだ。何人の侵入も許さないその場所は、七海が七海のためだけに作った地獄だった。私はそんなところから彼を引きずり出して、もっと暖かで心地よいところで一緒に過ごしたいと思っていた。冷たい水がいつでものどを潤し、額に浮かぶ汗は清潔なハンカチで拭ってやるべきだとそう信じていた。けれど七海の地獄は彼の一部であり、彼の中枢に深く食い込んでいてすでに不可分の存在だった。私にはそれがいつも耐え難く苦痛なのだ。
 私は片手でフォークを握り締め彼の顔をじっと見つめていると、七海が視線に気づき眉をひそめた。
「今度はなに」
「なぜ泣いてる」
「泣いてないよ」
「泣いてるでしょう」
「犬が飼いたいと思ってた、白くて大きくて立派な犬がそばにいてほしい。でもそれは無理なことなんだ。犬は賢いし優秀だけどすぐにどこかに行っちゃう、そこに行くべきだと思ったら私には止められない。なにせ私よりずっと賢い犬だから」
 犬が飼いたいなんて嘘だった。けれど私はそう口にしたとたん耐え難く悲しくなってしまった。空想の犬との避けられない別離にいまにも胸が張り裂けそうだった。犬の温かい身体は私から遠ざかり、永遠に感じることはできないだろう。彼をだれも止められない、そういう性質だったのだ。だからこそ私は彼に惹かれたし、まんまと取り残される羽目になった。
 私のでまかせに七海は今度こそ何も言わなかった。最初に私達が食べていた皿はいつの間にか空になり、新しい皿が追加されていた。そこには五体満足な蟹たちが乗せられている。私はその中から一番大きく立派な蟹を選んだ。慎重に切れ込みを入れ、足やハサミを割いていく。長い脚にフォークを深く差し込み、ぐるりとひねり身をねじり出す。甲羅を外し、可食部を可能な限り取り出し、皿の上に均等に並べ七海に差し出した。七海は順番にその白い繊維や黄色いゼリー状のものをあの細いフォークで器用に絡めとり口の中に収めていった。空っぽになった皿を端に寄せる。
「アナタは手が焼けるから、ずっと心残りだった」
 七海はそういうと、席を立った。ばりんと大きな音を立てて窓が割れた。テーブルの上に破片が光っている。その硝子の奥には光がちらちらと揺れていて、朝が燃え立つようにすぐそこまで迫っていることを知らせていた。私は炎に飲み込まれる街を見下ろしながら、あの夜の底で見つけた七海の下半身のことをようやく思い出していた。

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