「名前さんと何かあったのか」
 憲紀の問いかけに思わず真依は舌打ちしそうになった。加茂名前。一級呪術師の彼は加茂憲紀の従兄弟にあたり、数日前に合同任務に就いていた。加茂家相伝のうちの一つである構築術式を使う彼を真依の指導役に推薦したのは歌姫だった。2つ年下の後輩としての名前をよく知る歌姫は彼を「御三家のうちで随分マシな部類」と評していた。
 随分マシな男こと名前のことをその時まで全く知らないというわけではなかった。所用で京都高専の近くに寄ることがあれば欠かさず憲紀への挨拶のために足を運んでいる姿を談話室などで見かけていたし、先日も「忙しくて正月に顔出せなかったからお年玉を渡しそびれてしまって」と甲斐甲斐しく届けに来ていた。一級呪術師としてすでに任務に就いている憲紀に“お年玉”が適当なのかはなはだ疑問ではあったが、当の憲紀はまんざらでもなさそうな顔をしていた。単純に年下の親戚としてかわいがられているのが心地よいのだろう。よくある家族づきあいとしてはありふれたもののはずだが、それは真依や憲紀たち“御三家”の中では異質なものだった。
「ヘマして名前さんには助けられました。何、そんなことでからかいに来たの、嫌な人」
 任務の出来は最悪だった。呪霊の撒いた瘴気にそうそうに当てられてしまい、呪霊は名前一人で祓ったらしい。らしい、というのは、吸い込んだ瘴気のせいか任務の記憶が最初から最後まですっぽり抜け落ちているからだ。気が付くと名前に担ぎ込まれた医務室で天井を見上げていた。術式の指導もクソもあったものではない。加えてその日に限ってパンツスタイルの制服を全て洗っていてしまいスカートを履いていたので、名前は真依を抱きかかえるのに随分苦労していたようだった。気を失った真依をこわごわと抱きかかえる名前がよほど面白かったのか、歌姫が散々からかっていたと桃たちが嬉々と話していた。いつも五条悟たちにしてやられる立場の歌姫だが、名前のような部類の男には先輩風を吹かせることができるので気に入られていたのは以前から知られていたことだった。しかし、裏を返せばそんな男に頼りっきりになるような任務の内容だったのだ。等級の読み間違いなどではない、単なる真依の実力不足。
 不甲斐なさを隠すようにジロリと憲紀を睨みつけると、腑に落ちない顔つきで顎に手を当てフムと唸るだけだった。憲紀はこれだからやりにくい。こちらの話など聞いてはいないのだ。彼女は今度こそ舌打ちをした。
 しかし、真依が憲紀の怪訝そうな表情の意味を本当に理解したのはそれから数日後、禪院家に加茂家から加茂名前と禪院真依との結婚を伺う書状が、任務からちょうど1週間経って届いてからのことだった。

「私としたことが御三家を見くびってたようだわ、アンタもしょせん悟と同じ文化圏の人間だったってことよ」
「それ、一応伺いますが多分いい意味ではないですよね」
「黙んなさい、ペドフィリア。アンタは犯罪者よ」
 酷い言いようだ、と思わず反論しようとしたが、どこに出しても恥ずかしくない未成熟と言える年齢の少女に求婚したのは紛れもない事実だった。名前は気まずそうに天井を見上げることに押しとどめた。君は16、もうすぐ17。名前の脳裏に懐かしい歌がよぎった。Innocent as a rose──文字通り薔薇の如く無実な子供に違いない。加えて名前はもうすぐ18どころか28だった。沈黙の価値はいつだって金であると味気ない天井のシミを見つめながら名前は噛み締めていた。
 あの後しばらくして禪院家からは色の良い返事が返ってきた。年上の術師が指導を担当した女子生徒に目をつけることなど、もとよりよくある話だった。特に御三家の中でも最強こと五条悟を擁する五条家がここ30年ほど頭一つ出た状況が続いている。両家にとってもここで関係を深くしておくことは決してやぶさかではないのだ。名前は加茂家嫡男ではないとはいえ相伝の術式を継ぎ次期当主候補である憲紀の従兄弟だ。憲紀の身に何かあれば、加茂家を率いるのは名前の可能性は十分に考えられる。なんと言ったって加茂家当主の直系子息に相伝の術式を宿した人間はいないのである。現当主の甥とは考えうる中で最も血が濃く適した人材だった。そこまで優れた人間を愚にもつかないと吐き捨ててきた真依が射止めたのだ、禪院家にとっては海老で鯛を釣るどころの騒ぎではなかった。
 無論、禪院家でひと騒ぎになったことは加茂家でも同様の騒乱を巻き起こした。むしろ、ひと騒ぎどころか倍々ゲームでふた騒ぎにもよつ騒ぎにもなったともいえる。なにせ一族の宝である鯛がまんまと海老で釣られてしまったのだ。
 元々婚約者がいたものの破談になってしまって以降数年ふらふらとしていた男がある日突然年端もいかぬ子供を次の婚約者に指名した。その報せは、破談に至った経緯も経緯だったためなかなか次を進められなかった周囲を大いに喜ばせそしてどよめかせた。
 加茂家とて禪院家と懇意にすることはやぶさかではないが、真依はその器としてあまりに不適格だった。16の肉体は若く健康で美しく、子を産むことに支障はない。しかし、問題は生まれてくる子だった。真依の術式は新たな“触媒”としてはあまりに魅力に乏しく、更には最も忌むべき存在姉・真希がいた。術式どころか呪いさえ見ることができない人間の双子など迎えてと眉をひそめた者も少なくはない。今回の婚約騒動で加茂家では当然ながらそれが最大の争点となった。
「お待たせしました」
 顔を上げると真依が立っていた。顔色はいい、もう怪我は全快したのだろうか。名前は慌てて立ち上がり微笑んだ。真依は愛想良く努めようと平時の不機嫌さこそ隠しているが、京都高専で憲紀を交えてあいさつしたときに比べるとどこかこわばった表情をしている。同級生の親戚と当たり障りのない世間話をするのと、突然降ってわいた一回り以上年上の婚約者とでは話が違うのは当然だろう。
 名前は瘴気を浴びて医務室のベッドで寝かされていた真依のひび割れた唇を思い出した。廃校舎にはいつのまにか霧が広がり、いないはずの子どもたちの声が反響して聞こえる。年は10にも満たないだろうか。足音は二つ、遅れていた方の少女が呼びかける「待ってよ、お姉ちゃん」……──
「いえ、俺が早く来すぎてしまって。お気になさらないで」
「倫理も守れない怪物が時間を守ったくらいで紳士ぶって、わざとらしい。こんなヤツ2時間でも3時間でも待たせとけばいいのよ」
 歌姫は鼻を鳴らし不快そうに浅く腰掛け身体をそらせた。返す言葉もない名前は居心地の悪そうに真依に着席を促した。真依の目の前でペドフィリアと呼ばれないだけ感謝するべきだろう。
「体調はもう大丈夫かな」
「はい、あのときはご迷惑をおかけしてすみません」
「謝らないで。多分簡易生得領域の類だと思うけど、精神に作用するタイプで予備知識がないまま突入させるべきじゃなかった。これは俺の事前のリサーチ不足が原因で、真依さんのせいじゃないよ。記憶の混濁とかはない? あれ以来同様の呪霊は確認されてないけど元々、広範囲で確認されているから単体じゃない可能性もってちょっと!」
 ガチャンと中身が半分以上空いていたコーヒーカップが数センチ浮き上がった。重力に従い元の場所へとたたきつけられたそれに、喫茶店の周囲の客が一斉にこちらを一瞥し、そして再び会話の輪の中に戻っていく。名前はため息交じりにテーブルの上に飛び散った残滓をお手拭きで拭き取る。歌姫がテーブルを蹴り上げたのだ。見るからに不機嫌そうに足を組み替えた。
「あんた仕事の打ち合わせに来たの? 私が指名されて同席してる理由考えなさいよ」
「わかってますよ、せっかちだな……」
 あの任務以来、つまりは名前が結婚の許しを請う書状を禪院家に出してから二人が顔を合わせるのは今日が初めてのことだった。本来であれば直毘人がここに同席するはずだが、婚約と言えど彼らには真依に割くべき関心など持ち合わせていなかった。許しを請うのは加茂家であり、それを認めるかどうかは禪院家に委ねられている。その高低差さえついているのであれば、他に気に留めておくべきことなど何もない。歌姫は申し訳ばかりに指名された真依の世話役だった。
「結婚のことなんだけど……急なことでとても驚かせてしまったと思う、ごめんね」
「……どうしてですか」
 何故。どのことを問うているのか名前は一瞬判断に迷った。禪院家に結婚を申し込んだこと、よく見知らぬ真依を選んだこと、対応を急いだこと、疑問などいくらでもあり、恐らくすべてが不可解に違いない。
「真依さんのことは憲紀を通じて少し知っていて、先日の任務もあって、あなたのことをとても好ましく思いました。でもあなたはまだ学生だし、俺たちはちゃんと知り合って間もないわけだから結婚はもしよければ真依さんが25歳になるまで待たせてほしい。もちろんその間どう過ごしてくれても構わない、高専が嫌なら今日にだってやめてもいいし生活は俺が後見人になって保証する。真依さんが一人で暮らす家だって借りて十分な生活費も用意するし、俺はそこに一切立ち入ったりしない。……本当はまずあなたに直接そうお話するべきだったけど、なかなか難しくて最初からすべて家同士の話になってしまって申し訳ない。俺はあなたがやりたいことは全部叶えてあげたいと思うし、あなたが同意しないことは絶対にしない。この婚約もそう、真依さんが嫌だったら意味がないんだ」
 嘘は言っていないはずだ。だが、彼女の疑問にも答えてはいない。名前は慎重に言葉を選びながらなるべく整合性のとれた経緯を組み立てた。均等に切り取られた3等分のケーキ、あまりにも形を整えられたものは不自然さを際立たせ、食欲を失せさせる。
「アンタ、ハンバート・ハンバートにでもなったつもり?」
「私、任務のこと何も覚えてないわ」
「領域に入ってすぐに気を失ってしまったからね、気にすることはないよ。呪霊は俺が祓ったわけだし」
 真依の誰に宛てたともしれない独り言に対して、名前は安心させるように答えた。けれどそれ以上何も言わない。あの日何が起きたのか、この男以外誰も知らないのだ。報告書は勿論提出されている。ありふれた呪霊退治。けれどそこに何かが隠されていることは明白だった。でなければ今頃こんなことにはなっていないのだから。
 真依はため息をつき、眉間を押さえた。話がうますぎる。目の前の男が何を考えているのか測りかねているようだ。
「本当に、覚えていないんです。何が名前さんの気にとまったのか分からない」
「そんなこと大した理由じゃない、くだらないものだよ。今大切なのはあなたが俺の申し出を気に入るか気に入らないか。たったそれだけなんだ」
「私に、拒否権があるとでも?」
「あるよ、あなたはただ俺にひと言嫌だと言えばいい。後は俺がうまく処理する、絶対にご家族の中で悪い立場にはさせない」
 真依は思わず瞑目した。名前の言う大したことではないくだらない理由で、禪院家の長老がたは一堂に会することになり当事者の真依をよそに何日にも及ぶ大激論を交わす羽目になったのだ。加茂家の中枢に娘一人送り込むことはいいが、それがなぜ“真依”なのか。皆の関心はもっぱらその一点だった。およそ価値のない術式、見栄えしない呪力、今まで唾棄してきたものに突然ついた値打ちは彼らにとってあまりに不相応に映った。
 そこで太陽の如く頭上に掲げられている価値観は、真依がこの禪院家に生まれて以来何度も乗せられては引きずり降ろされてきた天秤だった。針は常に向こう側に傾いている。真依はその皿に乗せられる度に持ちうるすべてを差し出したが、一度として水平を指し示したことはない。繰り返し貼られてきた不適格のレッテルが再び現れ、ナイフのように飛び交っては真依の身体に深く食い込んだ。実体のない刃がどれだけ真依を切り裂いたとして、誰も彼女を顧みることはない。真依は身体がどんどんと透き通るのを感じた。釣り合いの取れない天秤から滑り落ちた真依は存在しないも同じなのだ。事実として、真依がその場で発言を許可されたことは一度もなかった。
 結局、終わりの見えない論議に終止符を打ったのは直毘人だった。「欲しいというならやれ。穀潰しを加茂のやつらに押し付けて恩も売れる、最後にようやく儂を満足させたな真依」その日初めて口を開いた直毘人はそう吐き捨てると、酒を片手にふすまの奥へと姿を消した。
「真依さんがどんな結論を出すとしても、あなたの家族のことを信じないで。いまは俺の言葉だけが本当だと思ってください、絶対に誰にも後ろ指は刺させない」
 名前の凪いだ湖畔のように静かな瞳の中に、真依は自分の姿を見つけた。いつの間にか手元にコーヒーが置かれている。カップの淵を撫でると冷えた指先が輪郭を取り戻した。
「あなたがしたいことを、俺に命じて」
「お受けします」
 歌姫の舌打ちが喫茶店に鋭く響いた。

- ナノ -