なんとなく、嘘の多い人だなとは思っていた。
 深夜にベッドを抜け出して、何食わぬ顔で血の匂いと共に朝方潜り込んでくることもあれば、何の連絡もなくそのまま数日帰らないこともあった。
 判で押したような規則正しい生活と案外こまめな彼の恋愛に対する姿勢において、それは歪なささくれだった。彼の輪郭をなでるたびに、指先をどうしようもなくひっかいては存在を繰り返し示すのだ。この男は嘘を吐いていると。
 彼曰く「出張と時間外労働が多い仕事」とのことだったが、それでも説明のつかないことは多くあった。デートや休みの日に鳴る彼のスマートフォンはほとんどの場合終末のラッパと同じだった。予約していた旅館への往路をそのまま復路に変えたり、温かい二人での夕食を1人分ラップに包んで冷蔵庫に収めさせた。
 けれど、彼はそれ以上何も言おうとしなかったし、私もたずねなかった。彼がそのことに関してどう思っていたのかは知らない。頭のいい人だから、まんまと騙し通せているなどと楽観的な観測はしていないようだった。そして、私はその申し訳程度の嘘を許していた。騙そうとする気概もない、言い訳のようなお粗末な出来の嘘にどんな矛盾が現れても、たいてい目を瞑って通り過ぎるのを待った。それ以外には、彼はおおむね誠実な人間だった。別の家に違う女を囲っているような不誠実さではないと、なんとなくそう思っていた。
 けれどその日のラッパは目を背けようもないほど大きく、そしてまったく別の形で鳴り響いた。

「ナナミンじゃん! なに、隣彼女?」
「……どうも」
 早朝からトラブルが起きてしまったらしく、土曜日にも関わらず会社に出向き、何とか昼過ぎには片づけた日のことだった。七海は珍しく週末を自由に満喫できるらしく、午前中はお気に入りのカフェのテラス席で過ごしていたようだった。仕事を終えた旨をメッセージを送ると、見覚えのあるテラス席に置かれた飲みかけの紅茶の写真だけが送られてきた。ラフな仕事着に片手間のメイクで向かうにはいくらか憚られたが、この後は何の予定もない土曜日の午後だ。そう知り合いに出会うこともないだろうと高をくくっていた。
 東京の街を縫うように走る地下鉄を乗り継ぎ、目当ての店に到着する。お待たせ、と店員から一度下げられたメニューを受け取りながら席に着く。
 そして、少年は現れたのである。
「こんにちは。七海、知り合い?」
 声をかけられたのに一言返した以外何も言わない七海に言葉を促す。テラス席の低い生垣から覗く少年の顔はあどけない。もう逃れられない。そう観念したかのような溜息をひとつはいて、七海は彼を一瞥した。
「……こちら虎杖くん、仕事先で知り合いました」
「なにその表現、まあいっか。どーも。お姉さんは?」
「名字です、若いね。高校生?」
「そんな感じ! ナナミンにはいつもお世話になってマス」
 パーカーを出したラフな制服姿、都内ではあまり見かけない古めかしい学ラン。そもそも都内には制服を規定する学校はさほど多くなく、道行く女子高生が来崩しているのは制服に似せた私服であることが多い。私は七海の横顔をしばらく見つめていたが、サングラス越しでは彼の視線がどこに向いているのか分からなかった。
「これからご飯だけど一緒に食べます?」
「え! いいの? ってナナミン顔怖、ウソウソ冗談だよ俺も伏黒たちと待ち合わせしてるから……」
 見かけて声かけただけだからじゃあね、と手を振って嵐のように去る少年の後ろ姿を見送る。なんでもないふりをして私はもう一度メニューに目を落とした。
「やっぱ高校生って元気だね、あ私これにしよう。七海はもう食べた?」
 珍しく七海は動揺しているようだった。もう一度あの粗末な嘘を吐いてくれなければ、騙されてやることもできないのだ。七海は何も言わない。どうやら平凡で穏やかな休日まで修復するのは私の役目のようだった。

「名前さん、ちょっといいですか」
 エンドロールが流れていた。65Vの液晶をぼんやりと眺めていた私はソファにもたれたまま首だけ回して彼を見た。真っ白なシャツ、ダイニングテーブルには埃ひとつない。彼は清潔な人間だった。
「どうしたの」
「今日のことで、話しておくことがあるんです」
 私はあきらめてソファから立ち上がった。促されるままに、ダイニングに着いた。
「先に言ってもいい?」
「はい」
「何を言うか気にならないの?」
「もう、そんなことを言っても仕方がないでしょう。あなたも分かっているはずだ」
 フゥン。彼は眼鏡をかけないでこちらを静かに見つめている。凪いだ湖畔のような瞳からは何もくみ取れない。
 彼のその表情を見て、私は清潔な顔つきだと思った。すぐにばれるような粗悪な嘘ばかりついて、上手に騙そうとする気のない男。そんな彼が自分のついていた嘘に直接触れるようなことをしてきた。お互いが何でもない風を装って目をそらしてきた傷口を、彼は自分で抉り出した。
「ナナミンって呼ばれてるんだね」
「……わざわざ前置きまでして言うことがそれですか」
 じとりと責めるような目線が痛い。少し脱力したように溜息を吐く姿に、案外彼も緊張していたのかもしれないなと場違いに思った。あからさまな嘘に気付いていても彼のことを見逃してしまうほどには彼のことが好きな私はそんな姿にも見当違いな愛おしさで胸をよぎるのだ。
「ほんとはいろいろ考えてたよ。ほかに彼女がいるのかなとか悩まなかったわけじゃない。けど、七海の顔見たらやっぱりいいやと思った。言いたいことなくなっちゃったや」
「……簡潔に言うと、あなたにはいくつかの嘘をついていました。こんなことを改めて言わなくてもあなたがそれに気付いていることも知っていましたが、私にはそれをきちんと説明できなかったし、しようとも思いませんでした。でもそれは、あなた以外に交際している人がいるとか、そういうことではないんです。それだけは誓って言えます。こんなに嘘ばかりで信じろという方が難しいかもしれませんが、あなたに不義理を働いたことはありません、あなた以外に誰かを求めたことはありません」
「なにこれ、サプライズプロポーズ?」
「茶化さないでください、真剣な話ではいつもそうだ。悪い癖ですよ。……映画のエクソシストを見たことはありますか、死霊館とか、陰陽師、貞子VS加耶子でもいいです」
「あるけど」
「私の仕事はだいたいそういうものです。宗教的な意味で穢れているとされるものを祓っています、意味が分からないと思いますがそういう人材を育成する学校に通っていて、就職は証券会社にしましたがまた同じ業界に戻りました。けがをして帰ったりするのもそのせいです」
「来るの柴田理恵みたいな仕事ってこと?」
「少し違うような気もしますが、まあいいでしょう」
 貞子はいいのに? と思わないでもなかったが口にしないでおいた。茶化すとまた眉を顰められるだろう。覚えておける範囲のことはなるたけ行動に反映して改善しておくことに限るのだ。もっとも、忘れてしまうとまた七海に苦言を呈されるのだが。七海と先日一緒に見た映画を思いかえし、眉を顰める。
「じゃあだめじゃん、死んじゃうじゃん」
「そういうこともあります、だから言えませんでした」
「どうして今更こんなこと言うの? もう隠し事はナシってこと?」
「いえ、これからも言えないことは多いと思います。名前さんは部外者なので」
 部外者。七海の発した言葉は耳の穴から私の身体の奥深くに入りこんできてそのまま落下した。体の内側の柔らかい内臓の部分を重力のままに荒らされる。なるほど、確かに私と七海はお互いに無関係だ。法的にお互い何の責任も負っていないし、週に何度か会ったり会わなかったりするだけの気楽な恋人。ベッドを抜け出して血だらけで帰ってきても何も咎めなかった私に、何かを言う資格がないことなんて火を見るより明らかだった。
「部外者じゃない……っていうか、関係者ってどういう人なの? その学校の卒業生とか?」
「そうですね、基本的に血縁が多いです。狭い業界な分、家族のつながりが良くも悪くも強いので。私は一般家庭から入ったので珍しい部類ですよ」
 ふぅん、と頷いたあとはもうその話はしなかった。もう一本一緒に映画を見た。見たのはほんの30分ほどで、後はずっとセックスをしていた。ソファで一度、ベッドで二度、風呂場で最後にもう一度。こういうことにはとても淡白だった七海にはとても珍しいことで、初めて見る彼の一面はどうにも不思議な感覚だった。リビングから放置した映画の音声が漏れ聞こえるたび、彼がこんなにタガを外したことがあったか考えていた。シーツにつま先が引っ掛かり、上手く身動きが取れない。「考え事ですか?」と私に馬乗りになって顔をのぞき込む七海の瞳は欲に濡れている。七海の節くれだった指とその先についたよく磨かれた爪の感触が私の脊髄を快感で毟る。「ナナミンのことだよ」「その呼び方ほんとにやめてください」

「明日ドライブに行こうよ」
 シャワーを浴びてまだ湿っている彼の太い首筋に後ろから抱きかかえるように顔を寄せ、シャツのボタンの間に指を入れる。
「あなた、まだ足りないんですか」
「まさか。もう疲れて一歩も動けない。触りたいだけだよ」
 七海のあきれた声に思わず笑ってしまう。事実、浴室に長居をしすぎてのぼせたとぐずる私を風呂場からベッドまで甲斐甲斐しく運んだのは七海だった。
「私は触られ損なのでは? ……ドライブ、最近行ってなかったですね」
「七海の底なしの体力に合わせると私が死んじゃう。でしょ、海に行きたいなあ」
 確か明日の天気予報は晴れだった。バスケットに家の近くで買ったフルーツサンドと厚手のブランケットを入れたらそれだけで完璧な日曜日だ。砂浜にブランケットを敷いて読みかけの本の続きを進めるのもきっと素敵なことだった。寝返りを打ちこちらに向き直った七海のぶ厚い舌が首筋に這う。私は七海の髪を触りながら、二人で抱き合って眠った。
 翌朝は少し遅く起きて、七海がお気に入りのベーカリーに立ち寄った。私の車でも別によかったが、七海の体格では国産車は少し窮屈なのは確かだった。私は今日を完璧な休日として過ごしたかった。
「こすらないでくださいよ、ハンドルの位置は同じでも車幅が違うんだから」
「……任せて」
「はあ……」
 もう12月だというのに日差しは暖かく、車内はまるで暖房を入れる必要なんてまるで感じなかった。七海は少し暑いのか助手席の窓を開け、肘を外の風に当てていた。
「ケガしても知らないよ」
「しませんよ、誰かさんじゃないんですから」
「でも七海は結構自分の手足のリーチ分かってないときあるよね、うちにくるとテーブルに足ぶつけてるじゃん」
「あなたに合わせて作られた部屋が私のサイズにあうと思いますか」
「嫌味と捉えますが」
 七海は窓の方へと顔をそむけた、ゆるく撫でつけた前髪が海風に乱されている。それを直す素振りもなく、無造作に風に任せたままにしていた。こんなに穏やかな週末を二人で迎えたのはいつぶりだろう。
 私は上機嫌でブランケットを浜辺に広げ、まだ温かいチーズサンドにかぶりついた。七海は唇の端にクリームをつけながら小説を読んでいる。風が強く吹いているのに、片手でなんとかページをめくろうとする七海に腕を伸ばし次のページに手をかけた。顔を上げた七海と目が合い、思わず笑ってしまった。半身を乗り出し彼のもう片手を塞いでいたフルーツサンドをかじった。ゆっくりと彼が近づいてくる。乾いた彼の唇、そして熱い舌を感じる。離れていく彼の吐息を唇に受けながら、それはため息のようにこぼれた。
「結婚しよう、七海」
 耳元で海風が轟々と音を立てる。小説の読んでいたページの間に指を挟んだまま、ブランケットの上から縫い付けられたように動かない七海の手のひらの上に自分のそれを重ねた。
「家族なら関係者になれるんでしょ」
「幸せにしますとは言えない」
「うん」
「きっと私が先に死にます」
「うん」
「言えないことも多い」
「うん」
「あなたを1人にする」
「それでいいよ。七海の最後だけ教えてくれたら、ほかはいらない。死んだらずっと一緒にいよう、もうどこにも行かせないからね」
 隣の七海を見上げる。逆光で彼の表情は見えない。
 色素の薄い彼の髪が太陽光を透かして、私の右目に深く入り込んだ。光の針は視神経を通って身体の奥深くまで食い込みそれはいつしか心臓にまで達した。じんわりと涙が浮かび、七海の乾いた大きな親指が目のふちに触れてそれをぬぐった。息ができなくなるほど優しい左手に、私はいつかそう遠くない日にこの人が死んでしまうことを確信した。

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