時刻は午前5時45分。
 約束の時間よりは少し早い時間だけど、山口くんは公園にいた。
「あ、おはよう名字」
 私を見つけて、山口くんはにっこりと笑う。目の端が赤くて、少し眠そうだ。
「うん、おはよう。いつ来たの、早かったね」
「名字こそ。俺も今ついたところだから」
 もう行く? と尋ねると、山口くんはこっくりと頷いた。
 山口くんがすっと私に手を差し出す。私はなんだか気恥ずかしくなって、さりげない様子を装い顔を逸らして、自分のそれを重ねた。


 始発のバスは予想通りすっからかんだった。木製のバスの床は、バスが縦に揺れるのと一緒になって大きな軋みを上げる。
 前から二番目の席のところは、腐ってしまっているのだろうか、腐乱した無花果の実と同じ黒色をしていた。
「名字、次で降りるよ」
「……うん」
 山口くんの肩に頭を預けてぼんやりとしていると、山口くんが私の頭を優しく撫でた。ぐずぐずと目を擦って彼を見ると、ちっとも眠くなさそうな顔で、何? と聞いてきた。
「眠くないの?」
「うん、全然」
 山口くんはすっとぼけた顔をしている。あんなに眠そうだったのに、どうしてだろう。
「俺の分が名字に移っちゃったのかな」
「そうかもね」
 山口くんはとろけるように笑う。幸せそうな、笑い方だった。


 雑木林の合間を縫うようにか細く生えている砂利道を踏みしめる度、むわりと泥の匂いが強まっていく。雨が降る直前みたいな匂いだ。それは爽やかに晴れきっている空と大きな矛盾を孕んでいて、不気味だ。首筋の産毛が、粟立っていく。
「匂い、すごいね」
 私が言うと、山口くんは咳き込みながら頷いた。
「違うとこにすればよかったね」
「う、ううん。名字、来たかったんだろ。なら俺も一緒に、行きたい」
 ありがとう、と私が言うと、山口くんはそれほどでも、と胸を張った。
 木々の合間にはまだ高度の低い太陽光は届ききっておらず、その多くの部分に底が見えないほど暗い色をした闇をはべらせている。熊や鹿などではない何か得体の知れないものが潜んでいるかもしれない、なんてばかげたことをぼんやりと山口くんの手を握り締めたまま考えた。
「疲れたの?」
 山口くんが何かを察したのか、私の顔を覗き込む。山口くんの目は朝日を弾いて光っている。
「ううん、なんとなく怖くなっただけ」
「何が?」
「木の奥からなんか出てきたら嫌だなあって」
「大丈夫だよ、名字のことは俺が守るから」
 ほらこうやって、と山口くんは私の手を離して、私を襲おうとする何かに両手を広げ立ちはだかる。
「なら安心だね」
 月島くんが練習試合でぼろぼろにされただけで半泣きになっていた山口くんが、私を助けられるとも、守れるとも思っていなかった。でも彼はそんな失礼なことを私が考えているとはちっとも知らない顔でふんぞり返っている。
「うん」
 でもさ、と私は手を繋ぎなおす。
「手を離しちゃ嫌だよ」
 山口くんは振り返り一瞬きょとんとした後、ふわりと笑って「そうだね」と頷く。
 直後、みえないなにかが私たちを切り裂いた。
 山口くんはそれにちっとも気づかないで「もう着いたみたいだ」と砂利道の奥を指差す。私はそれに、努めて笑顔で答えた。


 到着したお寺の御堂からは木魚の音が聞こえていた。
 その脇に、私たちが通ってきた林よりもずっと鬱屈した木々の中へと伸びる細い階段があった。入り口には蓮園と書かれた白い塗装の剥げかけている看板が息を潜めて立っている。
「行こっか」
 山口くんは私の手を引く。
「うん」
 階段の白い石を踏みしめると、木々の合間から生温い、生き物の吐息のような風が流れてきた。
「階段でこぼこしてて危ないから気をつけて」
 山口くんはそう言って私の手を握ったままひょいひょいと降りていく。私はそれに一生懸命ついていく。
 待って、待って、と声をかけるけど、山口くんにはちっとも聴こえていない。ぐにゃぐにゃと身を捩る蛇のような階段を駆け下りる。
「待ってよ、山口くん!」
 大きな声で言うと、山口くんは今の今までちっとも気づいていなかった顔でようやくこちらを振り返った。私を捕らえる直前まで、その目は沢山の光をたたえて、違う何かを必死で追っていた。
「ご、ごめん」
 全然気づかなかった、と山口くんは俯く。山口くんの瞳からはもうすっかり光が失われていた。
「いいよ、ゆっくり歩いて。こけちゃいそうだから」
「うん、ほんとにごめんね」
 山口くんは今度はゆっくりと階段を一段降りては私を待ち、また一段と降りていく。山口くん、頼もしい。なんて呟くと、山口くんがふにゃふにゃと笑った。俺、男だからね。山口くんはまた胸を張る。山口くん可愛い。でもこればっかりは言えなかった。
 あ、と山口くんが声を上げ、私は足元ばかりを追っていた目を前に向けた。ねじくれた階段は陰鬱した木々の群れと共に終り、その出口からは光が漏れ出していた。光のベールを、山口くんは私より一足早くくぐっていく。待って。
「すごい……」
 山口くんが心底驚いた風に声を上げる。その明るく開けた場所には、一面蓮の花が群生していた。深く息を吸い込むと、一際強い泥の香りが肺を満たした。
 沼地は私たちの立っている場所より一段低いところにある。沼の上澄みはとても澄んでいて、綺麗な色をしていた。渇いた喉が、知らず知らずのうちに上下した。あの冷たい水を、飲んでしまいたい。
「写真で見るより、ずっと綺麗」
 山口くんが振り返る。
「実物、見たことなかったの?」
「うん、だからこんなに大きいだなんて知らなかった」
 蓮は私たちの背よりずっと高い場所で揺れている。2メートルはあるんじゃないだろうか。
「傘になりそう」
 山口くんは蓮の大きな葉を指差して笑う。
「トトロの頭に乗ってそう」
「ほんとだ」
 じろじろと山口くんは蓮の葉を眺め回す。隣には今にもばらばらとほどけてしまいそうなほど花弁を開ききった蓮の花が咲いている。花弁の根元は白いけれど、その先はほんの少しだけ赤く染まっていた。
「あれ、匂いしないね」
 山口くんは鼻をふんふんと寄せて首をかしげた。時間はある程度過ぎてしまったのか、周りにある蓮の花は大体が開ききっているかそれに近い状態だ。
「蓮はあんまり匂いがないんだって」
「そうなの?」
「うん、花が咲くまではあるらしいんだけど、咲いたら飛んで行っちゃうんだって」
 山口くんの手を強く握った。山口くんは首を傾げてこちらを見る。
「なんだかかなしいね、それって」
「うん。蕾のときだけなんて、かなしいね」
「でも、そこまで隠されたら、嗅いでみたいなあ」
「でももうないんじゃない、蕾のやつなんて。それも嗅げるような岸辺に生えてるやつなんてさ」
「わかんないよ、まだ全部見て回ったわけじゃないだろ。きっとあるよ、一本くらい」
 それから山口くんは私の手を引きながら、一生懸命になってあたりを見渡し歩いていく。沼の形は綺麗な円の形をしているようで、その淵を歩きながらなんとなくいつか見た山口くんの踝の形を思い返した。今はハイカットの中に隠れてしまっているけど、山口くんの踝は確かに綺麗なまあるい形をしていた。ミルク飴そのものみたいな滑らかなそれは、山口くんが歩く度少しずつその形を変えているのだろう。
「あそこならよく見えるかも」
 山口くんが指差したのは、沼の奥にまで行ける小さな桟橋のようなものだった。その先は東屋があり、確かにそこからは沼全体が見渡せそうだ。
「足元、気をつけてね」
 山口くんは私の手を引きながら、そう言った。桟橋は半分朽ちかけていて、正直二人で渡れるか怪しいところだった。
「うん」
 山口くんはそろそろと慎重に足を伸ばし、その先の板が安全かどうかをつま先で叩き足場を選別していく。
「名字が落ちたらいけないからね」
 山口くんは自分が確かめた場所をそっくりそのまま私に踏ませる。あれ、山口くんてこんなに頼りになる人だっけ。そういえば私にとっての山口くんのイメージは出会った頃から変わらずに、いつも月島くんのそばにいる人、のままだった。彼がいつも月島くんの話しかしないことも、多分何か影響があるのだと思う。
「見た目より案外、しっかりしてたかも」
「そうだね」
「でもここまで無事だったの、山口くんのおかげだね」
「俺は男だからね。名字いつでも頼ってね、俺のこと」
 普段はツッキーがいるからあんまだけどさ。山口くんがつけたした言葉に、私はえ? と聞き返す。
「俺名字の彼氏だし、一応」
 山口くんはぷいと顔を逸らしている。
「これからは、月島くんなんて頼んないよ。山口くんが、いるから」
 山口くんの腕に縋るみたいに自分のそれを絡めると、山口くんが上擦った声で名字と私の名前を呼んだ。
「山口くん、蕾の匂いって青っぽいらしいよ」
「そうなの?」
「うん、聞いた話だけどね」
「確かめてみないとね」
 山口くんに優しく抱きしめられる。肩越しに、蜂の巣に似た蓮の種が見えた。水気をなくしたそれは、とてもグロテスクな形をしている。綺麗な花がそれから生えてくるなんて到底信じられない。
「あ、ねえ、あそこ。蕾がある」
 山口くんの指が私の肩を離れ、すいっと奥を目指してまっすぐ伸びていく。振り返ると、ここからそう遠くない場所にそれが咲いているのがみえた。手を伸ばせば、もしかしたら届くかもしれない。
「取れるかも」
 山口くんもそう思ったのか私を抱きしめたままめいっぱい腕を伸ばし、それを摘もうとする。山口くんの指先はそれをあと少しで捕らえそうだ。ぐぐっと山口くんの身体が僅かにまた伸びる音がする。その瞬間、風も受けていないのに蕾が前後に強く揺れた。
 あ、と思ったときにはもう遅かった。時間がゆっくりと流れていくような感覚。
 山口くんの身体は大きく沼側に傾き、抱きしめられた私もそのまままっすぐに落ちていく。蓮の花弁を浮かべた綺麗な上澄みには、私たちが写っている。
 泥の中に飲み込まれる瞬間泥が大きく撥ねあがり、山口くんは私を強く抱きしめた。泥の中はとても冷たくて、山口くんと触れ合っている部分が妙に熱かった。
「ご、ごめん」
 首だけを動かして、山口くんがこちらを見る。かわいい、と沼へ徐々に沈みこんでいるのにも関わらず場違いにもそう思ってしまう。
「いいよ。別にいいよ、だから泣かないで」
 上を見上げると、蓮の茎たちが一心に空へと背を伸ばしていた。蓮の花は美しい筋を光に透かしている。泣いてないよ、と山口くんが泣きそうに言った。
「あ、」
「なに?」
「花が落ちてる」
 私たちが倒れこんだ拍子に、一緒に落ちてきたのだろうか。山口くんがめいっぱい手を伸ばしたそれが、少し離れた場所に落ちていた。
「取れる?」
「ちょっと待って」
 山口くんが身体を動かすと、身体が一層沈みこむ。
「はい、名字」
 山口くんはまるで宝石でも持つかのようにそっとそれを掴んで私に寄越した。初めて触る蓮の花は、泥まみれの私の手でもわかるほど乾いていて、とても粉っぽかった。直ぐに破れてしまうのではないかってほど湿った薄い花弁を想像していたから、意外だった。
「きれい」
 けれど驚くほど綺麗だった。二人でそっと花を寄せ合い、小さく息を吸った。甘いけれど、どこか涼しげな香り。儚い、微かな香りなのに、何故かそれはそこらじゅうに立ち込める泥の粘着質な匂いに競り勝っていた。
「名字」
 山口くんは顔を半分泥に埋めながら笑った。
「キスして、いい?」
 私はこっくりと頷いた。

 ずぶり、ずぶり。沼が私たちを、飲み込んでいく。

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