カラン、とアイスコーヒーの氷が崩れるような音がする。手元の端末に目を落とすと、ポップアップに見慣れたアイコンとURLが表示されていた。テラス席は日当たりがよく、画面が日差しに反射している。持っていたアイスコーヒーを一度テーブルに置き、タップしようと右手の人差し指を持ち上げたところで、その小さなデバイスはけたたましく震えた。
「山口くんみた? 一緒に見に行こうよ!」
「な、なに? URLのやつ? ごめんまだ見てない……」
「えーなんで? ちゃんと送れてない?」
「開こうとしたらすぐに電話掛かってきたんじゃん」
 そっかあ、と彼女が電話口で笑うのがわかった。その奥から音楽が聞こえる。彼女はまたスピーカーで音楽を垂れ流しながら歩いてるんだろう。液晶を当てた右耳がこそばゆい。勝手だなあ、と気恥ずかしさを誤魔化したくてぼやく。スピーカーホンに切り替え、彼女が送ってきたウェブページを開く。ドイツでゴッホの耳が培養展示されているという記事だった。
「ゴッホってドイツの人なんだ」
「違うよもー! 前に展覧会行ったじゃん」
 彼女にねだられて数年前に仙台の美術館まで足を運んだのは確かだったが、美術館だというのに回廊はずっと人でごった返していて、俺は早々に近くのベンチで座り込んでしまった。人酔いに辟易する俺に、美術館は案外人が多いことを彼女は懇切丁寧に説明してくれたが、ほとんど忘れてしまった。
 ベンチにも人がぎゅうぎゅうに座っていて、盗難対策のチェーンがついた図録をみな熱心に食い入るように見つめていた。彼女は3時間ほどぐるぐると同じところを周っては、鉛筆で何かをメモしたり、双眼鏡や単眼鏡を代わる代わる目のくぼみに押し当てていた。
 極彩色の絵を描いて、耳を切って娼婦に贈りつけていた貧乏な絵描き。彼の絵が評価されたのは死後のことだった。
「こんなのみにいきたいの?」
「卒業旅行のついでに行こうよお」
「でもこれ、ゴッホの親戚の人の遺伝子なんでしょ、1/16しか遺伝子が一致しないんならゴッホじゃないんじゃない」
 確かゴッホ本人ではなく、彼の兄弟のひ孫だか玄孫だかの遺伝子を基にしているらしい。Y染色体のいち部と母方のミトコンドリアDNAをゆりかごに育まれたものが果たして本当にゴッホの耳だと言えるのだろうか。
「分かってないなあ」
 Feels like this song's already been sunと彼女の声の向こうで男が追いかける。「さびしいからだよ、偽物がいるのはさびしさを埋めるために造ったんだよ」
「なにそれ。……でも卒業旅行かあ」
「楽しみだよねえ、その相談も早くしようよ」
「じゃあ遅刻しないでほしいんだけど!」
 彼女が待ち合わせに指定したカフェは、よく行く店とはいえ一人でテラス席に座るのはかなり気恥ずかしい。大通りを右往左往する衆目に晒されながら、俺はもう一時間近く彼女のゼミの終わりを待っている。思想史を専門に勉強する彼女の卒論は現在煮詰まっていて、その相談が長引いたらしかった。
「ごめんごめん、もうちょっとで着くから私の分も頼んどいてよ。ケーキとかなんでもいいから」
「勝手だなあ、名字より先に来たら食べちゃうから」
「ええー」
 不満そうな顔が目に浮かぶようで、思わず笑ってしまった。
「じゃあケーキの残りを培養して食べちゃおっと」
「1/16ケーキ?」
「本物ケーキ! 山口くんが食べきったばっかりの新鮮な死体から採るから」
 なにそれ、と笑うと彼女のはしゃいだ声が聞こえた。
「私、山口くんが死んじゃったら耳とか培養しようかな、時々話しかけてあげるからね」
「それはさびしいから?」
 名字はまだ笑っていて、何も答えなかった。
 俺は名字のちいさな白い耳のことを考えた。彼女の1/16だかを模したポリマー製の白い軟骨は清潔なガラスケースに入れられている。透明な培養液に浸され、マイクを通して時折伝わってくる刺激信号に震えるだろう。かわいそうな彼女の模造品。そこに、彼女が俺に無理矢理開けさせたピアスホールはあるのだろうか。左右で不揃いな小さな傷は、何度か塞がりかけながらも遺伝子の地図にない形を保っている筈だった。
「俺は名字の耳なんか培養しないよ、絶対」
 山口くんはさびしくないんだ、とつまらなさそうに彼女は言う。
 その時ちょうど道の向かいの横断歩道で手を降る人影が見えた。車の走行音に混じって音楽が聞こえる。俺は名字が、赤信号も車も全部無視して、今すぐここに走って来ればいいのにと思った。

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