女の、大きな悲鳴が上がった。誰だこんな時間に。出所を探そうと首を巡らせるが判然としない。困惑した独歩の顔が視界の端で不安げに揺れていた。



 伊弉冉一二三が死んだ。
 スマートフォンが表示した懐かしい名前に顔は綻ばなかった。
 連絡してきたのは共通の友人の独歩だった。短いメッセージを何度やり取りをしたのち、電話が鳴る。
「もしもし独歩?」
「急に悪い、今日の夜空いてないか?」
「ううん大丈夫。わたしがそっちに行った方がいいよね? 少し遅くなると思うけど……──」
 手帳をめくりながらタイムスケジュールを組みなおす。いくらか整理しきれない分はあったが同僚の手を借りることにした。急なことではあるが事が事だ、きっと対応してくれるだろう。財布には住基カードがあったはずなので区外に出てもスムーズに中王へ戻れるだろうが、あいにく急に決まった区外だ。おぼろげな記憶を頼りに、デスクの引き出しへ腕を突っ込んで左右に乱暴に振った。荒いナイロンの紐が小指に引っ掛かり、手繰り寄せる。区外での打合せ用の防犯ブザーが予備で残っていた。22時過ぎに新宿西口の喫茶店で。そう今日のスケジュール一覧の一番最後に書きつけて、電話を切った。

 改札に押し寄せる人の波を泳ぎながら、すれ違う男の多さに辟易する。交差点を走り抜ける風俗の広告トラックの宣伝がけたたましく響いていた。どうにも気持ちが落ち着かず、鞄の中に突っ込んだ左手が紐のチクチクとした感触を絶えず確かめていた。ようやくたどりついた喫茶店の古ぼけた回転扉を押すと、店の一番奥のボックス席で、赤茶けた髪の男が片手をあげた。
「遅くなってごめん」
「いや、来てくれてありがとう。急なことだったから」
 ギャルソンの店員にコーヒーと軽食を注文しながら独歩の前にすでに置かれていたカップを見る。冷え切ったそれに、どうやらわたしは随分と彼を待たせてしまったらしかった。銀のスプーンでカップの底を小突く指は震えている。わたしはどうしたらいいかわからなくて、彼の所在なさげな小指を握った。独歩は堪えるように顔を顰め私を見たあと、ぽつりぽつりと言葉を探しながら口を開いた。一二三は昨日の夜、店の営業が終わり懇意にしている客との帰り道の途中、飲酒運転の軽自動車に横から突っ込まれ即死。運転手は現行犯逮捕、女は事故の直前一二三が彼女を道の反対に突き飛ばしたらしく命に別状はなし。すべてが終わり、独歩に連絡がきたのは今日の昼過ぎだったらしい。出勤前に一二三が帰宅していないことは気づいていたが、特段珍しいことでもなかったので気にも留めなかった……──。

 バラバラの言葉をまとめてしまえばたったそれだけのことだった。新聞の地方面下の三行記事にもならないような、ごくごくありふれた悲劇。故人の写真だってもちろん載らないだろう。わたしは一二三の顔を思い出そうとしたが、うまく思い描くことができなかった。高校を卒業して以来、折を見ては出かけていた独歩と違い、一二三は区外の打ち合わせの合間に街中や雑踏の中でその金髪を遠巻きに見かける程度だった。そして、今日までわたしは一度も声をかけなかった。彼が極端に女を苦手にしていると知っていたからだった。ストーカーに刺されたこと、「好意を寄せてくれるのはうれしいけど命だけは勘弁」なんて言いながら彼女を守るために命を呈したこと、それがきっかけでラップバトルを始めたこと、独歩とシンジュクでチームを組んでいること、他のことだって、なんだって知っていた。
「こんなことなら、一二三に声をかければよかった。走って近寄って、話しかけることだってできたんだ。いままでしてこなかっただけで。きっと会おうと思えば、いつでも会える気でいたんだ。一二三がホストをはじめてから女が苦手じゃなくなったのも独歩から聞いていたし。待ち合わせをして、一二三にスーツを着てきてもらって、三人で高校の時にはできなかったみたいに楽しく喋ることだって……」
 指先に冷たい感覚が走り、目線を落とした。独歩の白くかさついた指が、わたしの手首を覆っていた。何かを言おうとしたが、声がうまく出なかった。何を言いたかったのだろう。自分でも何もわからなかった。
 わたしはもう一度、一二三のことを考えた。高校の時とはすっかりと変わった一二三。同級生の女子とはほとんど関わりようがなく、旧友の独歩と彼の数少ない女友だちであったわたしを幾重にも経由して学生生活を送っていた一二三。直接話せた機会は少なかったが、独歩を通して交わした言葉や時間は覆しようもない。誰が何と言おうとわたしたちは確かに友人だったのだ。
 自分を変えたくて上京をした一二三。あえてホストという職業に身を投じた彼は、自己中心的な口ぶりのくせに、自分の理想のために自分を投げ出してしまった。なりたい理想のために死んだだなんてあまりにも皮肉だった。
「ホストになって、はた目から見たらまるっきり生まれ変わったけど全部あいつのまんまなんだよ。俺たちが知ってる優しいあいつから何も変わってないんだよ。なあ、最後に顔を、顔を見てやってくれないか」
 一二三はいま、知人で同じラップチームの医者の病院らしい。わたしは独歩の言葉を遮るように何度も頷いた。通夜は明日の夜の予定だ、それまで待てなかった。雑然としたシンジュクの人波をすり抜けるように、わたしたちは言葉も少なく黙々と一二三の眠る個人院を目指した。
 時計の短針が頂点を超えるころ、来院のブザーを押したわたし達だったが、長い廊下の奥から現れた長身の男は何も言わず力なく微笑んだ。独歩は一礼をし、わたしは夜分遅くとかお世話になっていますとかすみませんとか、判別のできないことをもごもごとおざなりに口にしながら彼の後を追った。病室にたどりついた独歩はカーテンで間仕切りをされた窓際のベッドの横に立っていた。結露した窓からはネオンが淡く滲んでいる。
「一二三、開けるぞ。珍しい奴が会いに来てるから、お前きっと驚くぞ」
 カーテンを引く独歩の声が震えている。彼の肩口から視線を上げた時、耳をつんざく女の悲鳴が聞こえた。独歩がおびえた顔で私の肩を揺さぶる。他人のものだと思った悲鳴は私の口から洩れていた。


 覗き込んだベッドには知らない顔の男が眠っていた。

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