人、人、人、人……──。朝礼が行われる体育館に向かう廊下はたくさんの人でごった返している。皆一様に同じ服を身に着けて億劫そうにノロノロと歩いているが、影山茂夫はその群衆の中で、追い越したり通り過ぎていったりする一人ずつそっと目で追っていた。
 例えば、足が早い人、歌がうまい人、勉強ができる人、話が面白い人、超能力が使える人──……。
 その分類を使うのであれば、茂夫は、足が遅くて(しかしこれに関しては最近改善されつつある、と茂雄は自負している)、歌が苦手で、勉強ができなくて、話下手で、超能力が使える人だった。
 超能力が使える。文字にしてしまえば荒唐無稽だが、影山茂夫は紛れもなく、超能力が使えた。取り落としたものを浮かせることができたし、遠くにあるものを手元に手繰り寄せることも、人に取り憑いた悪霊だって除くことができる。超能力を手に入れた人は皆、その力で出来ないことは何もないと思うようだったが、茂夫はいつも腑に落ちなかった。
 超能力が使えたって、出来ないことはたくさんある。例えばそれは、複雑な(と、茂夫には見える)数学の公式を組み合わせたったひとつの解を求めることや、好きな人に声をかけるなど日常の中にいくつも横たわっている。それらは茂夫にとって、超能力を使うことよりずっと難しかった。
 いやに長い朝礼を直立のまま傾聴するふりをする群れのなかで茂夫は頭の中で雲を描いた。ぼんやりと同じ時間を過ごすなら、退屈な朝礼より流れる雲を眺めるほうがずっと好きだった。茂夫の周りに立つ同級生たちは彼の中でどんどんと人の形を崩して曖昧な白い塊になる。
 学年のはじめに背の順で決められたそれは半年たった今では随分と歪な並びになっていた。14歳という肉体はその意思にかかわらず日を追うごとにむくむくと大きくなるが、それは今では茂夫にとって都合が良かった。でこぼこな雲の群れは風に吹かれて自由に揺れる。茂夫は自分の斜め前の羊のような形の雲がぐにゃぐにゃと崩れかけていることに気がついた。思わず抱きとめようとしたが、真っ白い羊は茂夫の指に触れる直前で人間の形に戻った。
「名字さん、危ない!」


「朝ご飯、寝坊しちゃって食べられなかったの?」
「朝はちゃんと起きれました」
「じゃあどうして?」
 2年1組の名字名前さんだよね、と名簿をめくりながら不思議そうに問うた保険医に、名前は少し躊躇したのち観念したようにそれでもゆっくりと口を開いた。
「ご飯、お家では食べないから」
「おいコラ」
 ダイエットだかなんだか知らないけど思春期の過度な食事制限は健康的な心身の発達を阻害して──、この春赴任してきたばかりの保険医の口はなめらかでとどまるところを知らない。白衣の右胸には器口とプリントされた真新しいネームタグが揺れている。名前は滔々と流れる正論に反論することもできず、退室するタイミングを見失い居心地の悪そうにパイプ椅子に腰掛けるしかなかった茂夫に助けを求め微笑んだ。
 茂夫はどうしていいかわからず、心の中で更に他の誰かに助けを求めることになる。助けてよエクボ、と呼びかけてもそばにはいないのか反応はない。半分近く埋まった問診票を盗み見ながらな茂夫は諦めて彼女と視線を合わせた。見覚えがある。同級生なのだから当たり前だが、放課後の肉体改造部の活動中に飼育小屋の近くでよく見かけた。確か、チャボというニワトリの世話をしていたはずだった。
「受け止めてくれてありがとね。足挫いちゃったの大丈夫?」
「う、うん…湿布貼ってもらったから気にしないで。名字さんも大丈夫? やっぱりその…無理は良くないよ」
 そういうことに疎いとは言え、茂夫の目から見て名前が決して標準を大きく逸脱した体型とは思えなかった。むしろ名前の手首に引っかかったチャーム付きのミサンガを見ても、明らかに彼女の細い手首を持て余している。それでも気にしてしまうのが思春期というものなのかも知れないが、倒れるまでするなんて不健康だ。
 僕、肉体改造部なんだけどもしよかったら……そう口にしようとした茂夫を、血色の悪い名前が恥ずかしそうに遮った。
「えっと…その、ダイエットじゃなくて、修練なの」
 修練。きょとんとした2人に気がつくことなく名前は続けた。
 お母さんと教会の人の勧めで、まずは朝ごはんから始めようって話になって……先週から夜も食べなくなったんだけど、まだ下手くそなのかなあ。
 照れたように頬にかかる髪を掻き上げる彼女の手首には、きらりとあのミサンガが光っていた。六芒星と十字を重ねたようなマークが刻まれている。茂夫はそれが、何度かニュースで見かけた新興宗教団体のものであることをようやく思い出した。茂夫はなにを言っていいのかわからなくなり咄嗟に口を閉ざしてしまった。
「でも、それで体調を崩したら意味がないでしょう」
 いつのまにか名前のそばに立っていた器口は、膝を折りベッドに横たわる名前と視線を同じ高さにしてまじまじとその顔を見つめた。それは静かな声だった。
 名前はそれでもきっぱりと、確信があるように撥ね退ける。
「でも、もう大丈夫なんです」
「……でもって、今日倒れちゃったんだよ?」
「名字さんがまた倒れたら僕も心配だよ」
「それは影山くんが世の子だからだよ」
 その瞬間、名前はしまったという顔をした。それは違和感だった。器口はしばらく押し黙ったあと名前に尋ねた。
「世の子って?」
「えっと……うーん……」
「それ、誰が言ったの? みんなは他の子は、世の子だって誰か言ったの?」
 肩を掴まれた名前は言い淀んだ。
「名字さん? その人を庇ってるの?」
「えっと、先生?」
「……あ、ごめんね、怒ってるんじゃないんだよ、ただ……。あぁなんて言うのかな、ごめんね、怖かったか。でも本当に名字さんや名字さんにそう言った人を怒ってるんじゃないんだよ」
「うん、分かってるんですけど、そうじゃなくて……誰かが最初に言ったのかな」
「え?」
「だって、先生の言うことがわからないんです。最初からそうなんだもん。だって、みんなは最初から世の子でしょ? 例えばチャボはニワトリでしょ、誰かが言ったからニワトリになったわけじゃないですよね。チャボが最初からニワトリなのとおんなじで、みんなも最初から世の子で、だから、私もずっと……」
 白衣を見上げた名前が何を言おうとしていたのかはわからない。彼女の顔には困惑だけが一杯に広がっていた。


「あの、影山くん」
 それは珍しく肉体改造部が休みになった放課後のことだった。いくつかの提出物を職員室に出し終えたあと、教室に残した鞄を取りに戻ろうと階段を登っていた茂夫は、頭上から降ってきた声に顔を上げた。
「名字さん」
 彼女の距離を取りかねているような恐る恐るとした声色が踊り場に響く。あれから茂夫と名前はろくに会話を交わしていなかった。もとよりなんの接点もなかった。同じ教室にいて、たまに放課後に見かけるくらいの、そんな二人だった。
「この前は、助けてくれてありがとうね、怪我させちゃってごめん。足首、もう治ってるといいんだけど……あと、その、世の子なんて言っちゃってごめんね、ばかにした気持ちとか、そんなんじゃなかったんだよ、ただ、咄嗟に出ちゃって……」
「名字さん」
「……うん」
「僕、全然怒ってなんかないよ。名字さんが倒れたときは、びっくりしたけど、あの、ちゃんと支えられなくてごめんね僕もぼーっとしてて。……あと、ごはん、ちゃんと食べてる?」
 茂夫の問いに名前は困ったように笑った。あの朝と比べて、名前の顔色は格段に悪くなっていた。やつれた、というより存在ごと希釈されてしまったようだった。茂夫は名前のその日焼けしていないものとは別種の白い皮膚を見ながら、真夏によく飲んだ、氷がほとんど溶けたカルピスのグラスを思い出した。
「でも、お昼はちゃんとみんなと食べてるよ」
「名字さんは」
「……うん」
「名字さんはもうご飯を食べなくなるの? 名字さんは、一体──」
 なになの? ぽとり、と二人の間に落ちたその言葉に、一瞬あたりは静まり返った。その空白に、茂夫はほとんど時間が止まったのかと思ったほどだった。窓の外から聴こえる野球部の白球を追う快音が永遠のように遠く思えた。名前はより一層色を失った顔で茂夫を凝視したあと硬く目を瞑った。瞼は今にも崩れてしまいそうなくらい白く恐ろしいほどだった。その後彼女が発した一言にはほとんど諦めの色が滲んでいた。
「あし」
「え?」
「足、まだ怪我してる?」
「あ、ああ、ううん。でも大丈夫だよ、すぐに治ると思うし」
「私が治してあげようか」
 いま、教室誰もいないから。ひと足早く階段を登り始め、逆光を背負いながら廊下の奥を指さした彼女がそのときどんな顔をしていたのか茂夫にはわからない。今後も知るすべはないだろう。
 無人の教室で茂夫を座席に座らせた名前は「私、いまからすっごくヘンなこと言ったりしたりするけど、びっくりしないでね」と弱々しく笑った。おずおずと湿布の貼られた足首を差し出すと名前は右手を触れるか触れないかのところでかざした。
「私、神様なの。意味わかんないと思うけど、生まれてから今までずっと神様なの私。ご飯も、次のステージに行くための断食なんだ。信じられないのは当たり前だし、体験してもらうほうが早いと思って」
 こうしてたら、痛みが引いてくのがわからない? いつも、こんなことばっかりしてるんだよ私。
 名前の言葉は茂雄の体の穴という穴から染み込んでぐるぐると廻った。はいりこんだ器には入口があっても出口はなかった。窓から深く差し込む西日が茂夫のうなじをじりじりと焼いている。
 名前の手からは名前のぬるい体温が伝わってくるばかりでなんの力も感じない。彼女が特別な力を持っていれば、それが茂夫にわからないはずがなかった。けれど茂夫はピンを刺されて時を止められてしまった昆虫標本のようにいつまでも身じろぎ一つできなかった。



 彼女はしばらくして全く学校に来なくなった。学校に何度掛け合っても家庭の事情ということで何も教えてもらえなかった。大人たちは薄々、彼女の特殊な背景に気づいているようだった。これでは埒が明かないと霊幻に助言を請おうとして間もなく、おざなりのように名前の転校がホームルームで担任の教師から告げられた。教室に整然と並んで座る生徒たちは放課後の予定や課題を口々に唱えながら無関心にざわめいている。教壇に立っている男もすぐに次の話題に移り変わり、今週末提出期限のプリントを再度案内していた。ざわめきたちはどんどんと名字名前を押し流していく。
 彼女の代わりにチャボの面倒を見ることになった生徒はあまり熱心ではなかったらしく、チャボはいくらもしないうちに飼育小屋の施錠を忘れていたすきに入り込んだ猫に食い殺されてしまった。


 茂夫は時折あの冷たく薄い手のひらの夢を見る。
 夢のなかの茂夫は、現実と寸分違わなかった。足が遅くて、歌が苦手で、勉強ができなくて、話下手で、超能力が使えるだけの人間だった。超能力が使えたって、あの小さな手のひらを握ることも、できないのだ。

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