この国で毎年1000件殺人事件が起きてるとか、この星に毎日1000トンの隕石が落ちてきてるとか、俺の人生の軌道はいままでもこれからもずっとそのどちらにもかすめもしていないとか、たとえば、そういうこと。

 どれだけこの世界で自由や平等、公平とかいう言葉がはびこったとしても、選ばれた人種というものはこの先ずっと連綿として確かに存在しているだろう。それは極めて公正に、彼らが生まれたその瞬間から頑然とした事実として決まっているのだ。俺は神様とかそういう存在を信じたりはしていないけれど、それでも、この世の中を縛る見えないルールを、俺は痛いほど知っていた。それを踏み越えて行ける人間はごく一部で、そして俺はそれではなかった。だから、俺たちはまじりあわないし、寄り添って立つこともできない。
「あ、いたいた。手嶋くん、お疲れ様」
 七月も終わりの午後。学校のあちこちからは運動部の掛け声が上がっている。春から続いていた校舎の耐震工事の作業は少し前から一時休憩に入っているのか、彼らの声はより一層浮き彫りになって聞こえた。だらだらと垂れる汗をぬぐいもせず、部室から少し離れた場所で休憩をとっていると、名字は校舎の影から湧き上がるように悠然と現れた。陽だまりの中でぞわりと首筋が粟立った。
「おお、何してんの」
「手嶋くんはいま休憩?」
「そうだけど。あー、休憩そろそろ終わるわ。身体しんどくて戻りたくねえ」
 投げやりに空を仰ぎ、ぎゅっと目をつむる。もたれかかった立ち入り禁止のフェンスがだらしなくたわむのがわかった。瞼の薄い皮膚を日差しがじりじりと焼き付ける。光が目にしみて痛い。
「こんな暑いとこで休まなきゃいいのに。影はいんないの?」
「だよなあ、そうだよなあ」
 俺は何一つ名字の問いかけには答えず力なく彼女を見上げるばかりだった。名字は汗のひとつもかかずに、涼しそうな顔をしてわらっている。短い裾や袖から伸びる手足はまっすぐに白い。熱に浮かされた俺の頭にはそれはまるで血の通っていないマネキンのようにとても冷たく光って見えた。ぞっとするほどの不快感がこみあげてきて、俺は大きく息を吸う。
「そういや、名字さん、なんか用でもあったの。こんなとこまで来て」
「手嶋くんがいたから。きたの。私手嶋くんのこと、すきだから」
 彼女の目が、ぎゅうと糸のように細く引き上げられる。
「わあ、すごく嫌そうな顔」
 彼女が目を伏せた時にできるその薄い影が、いつだってきれいだった。きれいに笑って、だれからもちやほやとされて、おあつらえの彼女と同じ人種の男を隣に立たせて、この世のすべてを最初から与えられていることがまるで当然といった顔ですべてを、踏み越えていく。彼女はいつだって、そういう女だったのだ。そしてこっそりと俺にだけひどい顔で笑うのだ。
「なあ、俺をからかうのやめてくれよ。名字さんには彼氏がいるし、器口と喧嘩なんかしたくねえし、俺と名字さんは人種が違うんだよ」
「そうだねえ、確かに私たち違うかもねえ」
 でもねえ手嶋くん、と彼女の瞳が不意にぎらぎらと光った。獰猛な肉食動物のようだった。俺はすべてがいやになって、両腕で頭を覆う。
「私、手嶋くんの練習してるとこ見たことあるんだよ」
 彼女の目は底なしの闇を抱えていた。それは真冬の夜みたいに底なしに澄んでいて、俺は怖くて息もできなくなる。後頭部から首の裏にかけてまるでぽっかりと大きな穴が開いてしまったようで、今にも凍えてしまいそうだった。
「ほんとはね、何度もこっそり見に行ったの。すごいよねえ、あんなに汗かいて、必死になって」
 彼女はそう微笑むと、フェンスの業者用出入り口を押した。ずっと向こうで、作業服の男がこちらに手を振っている。彼女はそれを見てうっすらと笑っている。この世のすべてを、ばかにした笑い方だった。
「私、手嶋くんみたいになりたかったな」
 この国で毎年1000件殺人事件が起きてるとか、この星に毎日1000トンの隕石が落ちてきてるとか、俺の人生の軌道はいままでもこれからもずっとそのどちらにもかすめもしていないとか、たとえば、そういうことのはずだった。だから、俺たちはそばにいられない。そういう風にできているはずだった。
 彼女は何も言えないでいる俺に一瞥だけを置いて、そのまままっすぐ踏み越えて行く。
「インターハイ、がんばってね」

 いつのまにか作業が再開されたのか、校内はけたたましい耳障りな金属音にあふれかえっていた。
 俺はいつまでも、彼女が踏み越えて行った向こう側を見ていた。

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