ぱらり。ぱらり。時折響く紙の擦れる音は、心地よく周囲を支配していた静けさに生まれた端から飲み込まれていく。誰にも気付かれないようにひっそりと処分されていくそれは、意図したとおり誰の気にも止められない。そんなことを思いながら、私もやっぱり頭の主な部分を枕草子に、集中させる。
 夏は、夜。月の頃はさらなり。
 けれど満月は夏だけじゃなく、秋も昇る。秋の月に、時季を外してしまったものに、意味などないのだとしたら、それが存在する理由は一体何なのだろうか。もともとあったけれど、誰かが隠してしまったのだろうか。

 図書館から帰る道の途中にある花屋の店先には季節はずれのひまわりが咲いていた。
 もう肌寒いとすら感じる風の中で晒されながら、ひまわりは小汚いバケツにぶち込まれている。不遇な身を一切憂わない目の覚めるような色合いが私の目には眩しく、網膜がじりじりと焦げ付く気がした。
 突然立ち止まった私に黒尾はこちらを見て、どうした、と尋ねた。私はそれに答えず、吸い寄せられるように店のほうへとふらふらと歩き出す。おい、と不機嫌を隠さない黒尾の声を背中に聞いた。
「あの、すみません。あれをあるだけ、全部」
 店内に押し入り、外のひまわりを指し示すと、アルバイトらしき女子大生は、わかりました、と微笑んだ。そして私から少し遠くに視線を飛ばし、かわいらしく小さな会釈をする。振り返らなくても、黒尾がいつもの嘘くさくて堪らない笑顔を浮かべていることがわかった。
「彼氏さん?」
「はい」
「かっこいいねえ。羨ましいなあ」
 私はなんと答えていいのかわからず、笑って答えをうやむやにした。黒尾は、かっこいい。きっとそれは正しいことだ。けれど何故だか私はそれを諸手で受け入れられなかった。

「誰が買うんだ、んなもん」
 侮蔑するような目で、黒尾は店から出てきた私が手にしているものを見つめた。本来の体積は随分と小さいはずなのに、それを覆うビニールやら何やらで思いのほか大きなものになっている。私は早くも、これを購入したことを軽く後悔し始めていた。黒尾の目が無言のまま言うように、参考書など重いものを持った日に持つものではないのだ、確かに。けれど私は反論したくなる。それが正しいのだと知りながらも、どうしてもその正しさに逆らいたくなる。これを購入したのはそんなもっとわがままな理由なのだ。私を押し流そうとする大きな流れの中で、少しでも長くその場に留まりたくて突っ張るように手を、差し伸ばす。
「私」
 はあ、とぐったりした溜息をこぼした黒尾は視線を私からもひまわりからも外して、花屋と歩道のタイルの継ぎ目を確かめるようになぞった。
「買ってどうするつもりだよ。こんな季節はずれなもん、飾ってても恥ずかしいだけだろ、それも二輪だけ」
「別にいいでしょ。これだけしか残ってなかったんだから」
 無性に欲しくなったのだ。理由はそれだけ。誰にも渡したくなかった。誰も欲しがらないであろうそれが、どんなの形でも失われるのが嫌だった。捨てられるなんて、考えたくもなかった。
「家に花瓶あんのか」
「一輪挿しだけど、一応」
「そんなくそでかい花、一輪挿しに挿してどうするんだよ」
「どうすればいいのよ、じゃあ」
 しらねえよそんなの、と黒尾は言った。吐き捨てるような言い方ではなく、それは寝ぼけているかのような言い方だった。意識がほんの少しずつ覚醒していくような、けれどそのまま再び眠ってしまいたいと思っているような、そんな言い方だった。
 がさり、と一際大きな音を、花束とも呼べない、どこかむなしささえ感じさせるひまわりたちが立てた。腕の内側の皮膚には銀のアルミホイルに包まれた茎が当たって、とても冷たい。私の首筋はうっすらと粟立つ。
「あの、包みなおしましょうか」
 振り返ると、先ほどの女性が店内から半分だけ体を出していた。
「盗み聞きするわけじゃなかったんだけど、たまたま聞こえちゃって。一輪ずつ持って帰れば、いいかなって」
 余計なおせっかいだってわかってるんだけど、と言う彼女に、「いえ、それならお願いします」私はゆっくりと腕の中のそれを差し出した。照れくさそうに彼女は私が差し出したものを受け取り、そそくさと店内に戻る。
「余計なことしやがって」
「善意なんだよ、多分」
 きっと彼女はいいことをしたと思っているのだろう。些細なけんかを仲裁してみせたと、そう思っているのだろう。

 夏は、夜。
 そんな声がうるさくて冷たい秋風の中に紛れ込んでいる気がした。けれどそれもきっと結局のところ思い込みに過ぎない。
 黒尾と夕暮の中に並んで歩きながら私はそう確信する。
「これどうするんだよ」
 黒尾は二手に分かれた道の前で立ち止まり、独り言のようにそう言った。私たちの手にはすっぽりとひまわりが各一本ずつおさめられている。私は右。黒尾は左。そこでさようならだ。
「家に飾ればいいんじゃない」
「お前がこんなの買ってくるから」
「こんなのなんて言わないでよ」
「お前だって哀れむような目、してたくせに」
 黒尾は吐き捨てた。今度こそ吐き捨てる言い方だった。
「そんなことない」
「どこがだよ、あからさまにかわいそうなものを見る目だったじゃねえか」
 だって、だって、そう言って言葉に詰まる。私はこの後なんと言う気なんだ? 
 結局言葉を選べずに、私は押し黙った。黒尾は私の言葉の続きを待っているのか待っていないのかといった態度で赤と紫のまだらな空を眺めた。
「秋は、夜が早いね」
「ああ」
 紫が少しずつ、空を、街を、そこら中を塗りつぶしていく。

 時季を外してしまったものにもう意味なんてきっとない。私たちが一緒にいるのにももう意味はない。ひまわりと同じだ。私たちが今一緒にこの場所に立っているのは今まで私たちが一緒に立っていたことの名残に過ぎない。けれどそれをわかっていながら断ち切ることも出来ないのだ。
 私たちの部屋にはまだひまわりが飾ってある。

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