誰も乗らないメリーゴーランドが壊れたように延々回り続ける。肌寒い11月の遊園地では人影もまばらだ。遊園地自体が廃れかけていることもそもそもの理由なのかもしれないけれど。
「寒いね」
「うん」
かなりガタの来ているベンチに名字と二人並んで腰をかけてすることもなく、悲鳴を伴わないジェットコースターの発進や時折空へと吸い上げられる鮮やかな色をした風船を見つめたりしていた。
体半分だけ離れて座った名字を横目でこっそりと盗み見る。お気に入りのDAKSのマフラーをきつく巻きつけた名字はゴミ箱を荒らす暗い灰色の鳩たちを目で追いかけていた。不意に名字はバックからポロライドカメラを取り出し、ファインダを覗き込むとそのレンズを鳩たちに向ける。そしてそのまま血色の悪い青紫色をした今にも剥がれだしそうな小さな爪が一枚付いた指で一度だけ、シャッターを押した。
「何撮ったの」
名字はちらりとこちらを一瞥して、カメラに目を戻した。その下部からは振動音を発しながら紙がゆっくりと吐き出される。
名字は上目で俺の顔を覗き込み、ごめんねちょっと待ってね、と掠れた声で囁いた。うん、うん、と俺はその声を聴いて熱に浮かされたように何度も頷く。いいよいいよ謝らなくていいよ、と俺が言うと名字はまたごめんね、と謝る。それを聞いてまた俺は彼女を許したくなる。そして同時に彼女の許しを請う声を、繰り返し繰り返しいつまでも聴いていたくなる。
名字の手の中でじわじわと線が浮き上がる。名字は現像の速度を上げようと用紙の端をか細い指で摘まみ、扇ぐように振った。濁った乳白色の泉の中から、掃き溜めの鳩たちがぼんやりと姿を現す。
「どうしてこれを撮ったの」
「別に、なんとなく。ごめん」
名字は理由がないとそれを謝った。名字は謝る理由がなくてもそれを謝った。
「いいんだよ」
俺は出来る限り優しく名字の肩を抱いた。名字のコート越しでも薄い肩を抱くと彼女はこちらをそっと見つめた。
「山口くん」
うん何、と俺も名字を見つめる。名字の暗い灰色の瞳には俺が写っている。俺も名字だけを意識して見る。それ以外を見ないようにする。けれど決して俺たちの視線は絡み合わなかった。
名字はメリーゴーランドの影の中から何かを探し出すように目を細めて見つめた後「あれに乗りたい」と言った。
俺はそれに頷く。二人連れ立ってゲートまで歩いていき、ラジオを聴いていた係員に声をかけた。ゲートをくぐる直前に名字は何かに勘付いたのか、くるりと後ろを振り返る。
「山口くん、来ないの?」
俺との間で少し開いた空間を不思議そうに見つめて名字は尋ねた。俺は笑って彼女を送り出す。
「俺は名字を外で待っとくよ」
そう、と名字はそれに案外素直に頷いて俺に荷物を預けた後、メリーゴーランドへと足をまっすぐに伸ばした。
名字はじっくりと一つ一つの馬や馬車を眺めていたがやがて一匹の灰色の馬の前でぴたりと足を止めた。他のものとは違い、慈しむような手つきでその馬の顔を撫でた後、片足をその馬の上にあげた。係員はそれを確認した後、ノイズの酷いアナウンスをかけ、真っ赤なスイッチを押す。的外れで陽気な音楽が流れ、それを聴きながら遊具はゆっくりと上下をしながら回り始める。
名字はメリーゴーランドの裏側に吸い込まれ、そして逆側から再び現れる。名字は俺を見つけて、笑わないまま手を振った。名字が再び死角に飲み込まれる寸前、俺は名字から預かっていたバックの中からカメラをあさり出し、ファインダを覗いてほかの事は何も考えられないままにシャッターを切った。
その瞬間名字の瞳がファインダ越しに力強くこちらを押し返した。名字は強く訴えていた。遠ざかる彼女の背中を見送りながら俺はそれに小さく頷いた。
馬の動きの振れが徐々に小さくなり息絶えるように止まった。それを悲しみ、音楽も消える。馬から下りようとする名字に待って、と声をかける。名字は驚いたように俺を見た。
急いで係員に預ける荷物について少し注文をつけながら、もう一度メリーゴーランドを回してくれるように伝え、名字に近づく。
「山口くん?」
「俺も乗るよ」
どうして、と戸惑う名字に有無を言わさず先ほど撮った写真を握らせた。
「どうしても」
足を下ろしかけた不安定な格好の名字はやはり戸惑ったようにこちらを見つめる。
「ねえ、乗りなおして。俺も乗るから」
「う、うん」
すでに名字が乗っているので体勢を無理に変えることも出来ず、俺が名字の背中にしがみついて乗る形になる。
「一緒に乗るの? 別々でもいいんじゃない」
「いいから、ほら動くよ」
写真を掴む冷たい名字の指を背後から俺の指が覆う。それを彼女の肩越しに見ながら俺は中学の教科書に乗っていた金子みすゞの蜂と神様を思い出す。
蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
さうして、さうして、神さまは、
小ちやな蜂のなかに。
名字の冷たい指をさすりながら、さすった数だけ頭の中で蜂と神様を唱える。
俺と名字の指の中ではあの一瞬の中、写真に閉じ込められた名字が強い光を目にたたえていた。けれど名字自身はちっともそんなことに気付いちゃいない。そして無自覚な名字の裏側を切り取った写真はそのあとのことを決して語ろうとしない。
メリーゴーランドの裏側でいったい彼女はどんな顔をしていたのだろうか。
「名字、あそこ」
名字を掴むのとは違う側の腕を伸ばし、一点を指差す。
「え?」
ほらあそこ、と確かめるように同じ場所を指差す。その場所には係員が名字のカメラを持って立っている。
率先をするように俺が手を振ると名字もおそるおそると手を振った。
顔は前を向けたまま、名字は尋ねた。
「あの写真はどうして」
「名字と一緒に乗った証拠」
「この写真はどうしたの」
「気がついてたら撮ってた」
「どうして一緒に乗ったの」
「今日の名字はよく質問するね」
そう言うと名字は俯いた。そして掠れた声でごめん、と呟いた。
「ねえ名字はどうして謝るの」
「ごめん」
「答えてよ」
「ごめん」
「もうききたくないよ、ねえ。俺は名字を責めてもないのに」
もうベンチにいるときのようには思えなかった。ファインダ越しに名字の目を見た瞬間、俺は泣きたくなった。もしくは死にたくなった。殺して欲しかった。名字に俺の過ちを正して欲しかった。そして彼女には許しの言葉ではない違うものが必要だったのだ。
ごめん、と震える名字の手の中には写真が握られていた。そしてその二つは俺の手の中にある。
「ねえ俺は名字にとってのどこにいるの」
名字は何も答えてはくれなかった。
その間も俺たちはぐるぐると同じ場所ばかりを巡り続けている。