掴み所のない暗やみの壁に小さな白い染みが浮かび、急速に周りの色を食い潰していく。その中から現実味のない四角い鉄が姿を現わし、緩やかに停止した。背の低い落下防止の壁の扉が開くと、我先にとその間から黒い群れが溢れだし、ホームに溜まっていた郡集を掻き分け、他の扉から吐き出された別の塊と合流しどこかへと消えていく。列車から流れ出した人と同じか、またはそれ以上の数の人間がホームから列車へと流れ込む。その度人の匂いの強い空気が掻き混ぜられて、不快さが増した。
 本日何度目かの人の往来を見て、溜息を一つ吐いたあと自分を鼓舞するように膝を叩き、立ち上がる。ビン・缶と書かれたごみ箱に、まだ中身が随分と残った缶を捨て置く。もと来た道を戻って地上をめざした。

 朝よりも随分と勢いを増した太陽光線は、その及ぶところがないと言わんばかりに町中に溢れ返り、地表のみならず、それが纏う空気や人や落ちた蝉の死骸などといったものまでもを焼き尽くそうとしていた。加えて地面からの照り返しが酷く、薄っぺらなパンプスの靴底伝いに、腐乱する果実の持つ退廃的で暴力じみた熱を感じた。このまま腐ってしまえば、どうなるのだろう。肉には蛆がわくのだろう。骨は野鳥が持ちかえるかもしれない。けれど、魂は? 私の哀れな魂は、一体誰が食べてくれるのだ?
 ふと、どこか懐かしい、涼やかな香りが鼻先を掠めた気がして顔を上げると、木々の落とす疎らな影の奥に欝屈した緑を見つけた。どうやら上野まで歩いたらしかった。思考を毒す熱射から逃れるように、その頼りなさげな影のなかに転がり込み、ベンチに身を埋める。生ぬるい木製のベンチは、プラスチックやアルミ板といった人工物とは別の、やさしい堕落を纏っていた。このまま駄目になってしまいたかった。
 大きな蓮池を取り囲んだ木立のなかでは、営業の合間休憩をとるサラリーマンや幼気な少女をつれて戯れる母親、この熱播のなか生死も怪しいホームレスなど様々な人がばらばらに、そして健気に僅かな影の下で身を寄せあっていた。私は足の力を抜き、地面にダラリと行儀悪く放り出した。爪先だけが木陰から突出してしまい、気紛れに足を揺する度、鋭利な光をそこらに乱反射させる。そしてそれは時折り私の目に入りこんでしまい、私は何度か痛みを緩和させるため瞬きをすることを余儀なくされた。
 風にまかれる綿毛のように、母親のまわりを飛び回っていた少女は、池に群生する蓮の花に興味を示したのか、鉄柵にしがみつき立ち上がったり座り込んだりを繰り返しながら池を覗き込んだ。ざっくりとしか区切っていない鉄棒の間隔は案外大きく、彼女はひょいとした拍子に頭か真っ逆さまに池へと落ちてしまいそうだった。事実、母親の気を引こうと彼女は危なげな態勢をとっていて、その意図したとおり彼女の母親がそれを見咎めると、満足そうな笑みを浮かべる、ということをしていた。
 私はぼんやりとそれを眺めながら、その中に在りし日の面影を探していた。高校一年生当時、親しくしていた男の子。少し離れた寺院の蓮池を一緒に訪れた彼は、山口くんは、今どこで何をしているのだろうか。高校卒業後の進路どころか、学年が変わる前に関係が終わってしまったため、それ以降のことは意識しなければほとんどといって良い程耳にしなくなった。文理選択も違ったので幸か不幸かクラスは別れ別れになり、私たちの精神的距離は勿論物理的距離さえも決定的になってしまった。そしてそんな私に、今現在の彼を知る権利も術もありはしないのだ。
 突然短い悲鳴が上がった。顔を上げると、あの母親が我が子に駆け寄っていた。どうやらあの子供がとうとう本当にバランスを崩して危うく池に落ちかけたらしかった。せきを切ったように子供は泣きだし、母にしがみつく。ぽろぽろと真珠のようなまるで美しい涙を流し、真っ赤な顔を歪めながら母の腹に押しつける子供に、だから言ったのに、と頭を撫でる手は少し震えている。私にはそれが舞台の書き割りのような、どこかよそよそしい匂いのする嘘めいたものに見え、急に冷たい気持ちになっていた。いつか嗅いだ蓮の花のように、それは必ず失われるものなのだ。そこまで考えて、私は自分が空恐ろしくなって頭を振り、思考を散らした。蝉の鳴き声が妙に澄んで聞こえていた。違和感を感じることのなくなった、郷里とは違うそれは、どこか耳障りの良い言い訳のように思えた。蝉たちは短い命を燃やしながら、変わることや忘れることは決して悪いことではないのだと、私に囁きかけてくる。一見心地のよいそれは、けれど彼の言い訳でもあった。沈みつつある沼で私を抱き締めた彼の心変わりを擁護する歌は、紛れもなく青っぽい、涼しげな香りをしていた。

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