「コーチ!」
 振り返ろうとしたときにはもう遅かった。
 何かが勢い良く後頭部にぶつかり、その拍子に前へと倒れこんでしまう。
 何が何だかわからなかった。
「いってぇ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「す、すんません!!」
「日向、何やってんだボケェ!!」
 ダンダン、とバレーボールが横に転がり落ちるのを見てようやく、自分の頭部にそれが当たったことに気が付く。
 それにしても、痛い。
「こ、これ、保健室行ったほうがいいですよ」
 俺の手をひっぱり起こしながら、後頭部を見た武田先生が常にもまして慌てながら言う。
「ほ、ホントにすみませんでしたっ!!」
「何度も同じようなことすんなよ!」
 走り寄ってきた日向に影山が檄を飛ばす。
「俺、連れてきます。……大丈夫ですか?」
「悪いけど頼むわ」
 澤村に支えてもらい保健室にむかおうとすると日向が声を上げた。
「いやおれのせいだしおれが、」
「お前の背じゃ足んねえよ、気にしてねえから練習の続きしとけ」
 でも、と食い下がる日向の頭部をぐしゃぐしゃにして、行けと顎で合図する。
 渋々ながら、日向は背を向けた。
 悪い奴じゃないのはわかっているから、こんなことで腹を立てはしない。


「失礼します」
 立て付けの悪い腐りかけの木製扉を苦心しながら片手の澤村がこじ開ける。
 ……こういうところは昔とちっとも変わってないんだな。
 異様な音を立てて開いた扉にぎょっとした様子で、窓際のデスクに向かっていた白衣の女が顔を上げる。名字先生なんて呼ばれているけど、ちっとも先生らしくない人だ。センセイとつけて他の先生、生徒も呼んでいるけれどそれは多分記号みたいなもんで、ちゃん付けと同じ様なもんだ。
「あ、烏養さんなんて珍しい人。澤村くん、その人どうしたの」
「部活中にボールが当たっちゃって」
 頭のとこです、と澤村がそういいながら俺の後頭部のそれらしいところに手をかざす。
 見えないんで座ってください、と言われ、入り口近くに放置されていたパイプ椅子に押し込められる。
「……っ!」
「あ、ここですか、 ごめんなさい。そんなに痛いとは思わなくて」
 不用意に触れてきたその指は、的確に場所を探り出し、力強く押してきた。
 患部がどくりと熱を帯びて脈打ちだす。
「これ酷いですねえ。冷やしましょっか」
「コーチ、大丈夫ですか?」
「ちゃんと腫れてるから大丈夫だと思うけど。……腫れてないほうが怖いからなあ」
 名字先生は眉根を寄せる澤村に冷却剤を用意しながら半分ぼやくように答える。
「でも腫れが酷いんでここで冷やしながら少し休んでた方がいいと思いますけど、どうします?」
「じゃあ澤村、もうお前は戻っとけ」
「でも……」
「あの様子じゃ多分まだ日向がなじられてんだろうからな。止めてやれ」
「わかりました」
「あ、澤村くんちょっと待って」
 名字先生ががメモ、メモと言いながら白衣のポケットや机のあたりを適当にまさぐり、小さな紙切れとペンを取り出し何かを書き付ける。
「これ、田中くんと西谷くんに渡しといて」
「なんですか、これ」
 澤村がべらりとたたまれたそれを開く。
「『田中くん西谷くんへ
  今後一切保健室への入室を禁じます。』え?」
 朗読した澤村が顔を上げる。意味がわからないという顔だ。俺にも意味がわからない。まがりなりきもあんた保健教諭だろ。
「あの二人何かある度にここに来るのよね。それもどうしようもないことで、先生に恋をして胸が痛いとかさ。知らないっての。あたしを犯罪者にしたいのかね、あの二人は。熱中症対策用の塩飴全部食べちゃうし。国民の血税なんだと思ってるんだろ」
 澤村の顔にああ、と微妙に納得の色がさす。一応その節は知っていたらしい。
「でもこれ、あんまりじゃないっすか」
「そんなことないですよ。ほら澤村くん続き読んで。まだあるでしょ」
「そうなのか?」
「あ、ほんとだ。えっと……『命にかかわる場合は下記の電話番号へ至急連絡を』」
「ぶっ!! あんた生徒に携帯の電話番号教えるとかなにやってんだよ!!」
「え、違いますよ。だからまだ続きが」
「『市外局番などをいれず、119』」
「……鬼かよあんた」
「いいじゃないですか、税金払ってんだし」
「血税なんだと思ってんだよあんた」
「まあともかく澤村くん、それ絶対に二人に渡してね。こんなことで来るの止めるとは思えないけど抑止力程度には期待してるんだから。よろしくね」
「わ、わかりました。俺のほうからもきつく言っときます。迷惑かけてすんません……」
 じゃあ、と澤村は再び大きな音を立てながら扉の向こう側に消えていった。

「ベッドありますけど、寝ときます?」
「いや、」
「部活のほう、どうですか?」
「ん、まあまあってとこか」
「それはそれは」
 あからさまにどうでもよさそうな返事をしながら名字先生はデスクの下から大きなガラス瓶を取り出す。
「見てくださいよ、これ」
「んだ、それ」
「猿のホルマリン漬けです。可愛いでしょう」
「……あんたほんとにアクシュミだな」
「どうしてですか? ほら見てくださいよ、これ。新しいから液が透きとおってるんです」
 まるで、生きてるみたい。
 ごとりとそれを机の上においた名字先生はうっとりと両頬に手を添えて目を細める。
 意味がわからねえ。
「最近規制が厳しくって。新しく買うのが大変なんですよね」
「……どうやって手に入れたんだよ」
「聞きますかあ、それ」
 がたがたとパイプ椅子を引きずり、名字先生の方へ向かう。
 近づいてよく目を凝らして見ると、ガラス瓶の中に閉じ込められた猿は二匹いるようだ。
 二匹の猿は絡み合うように密接に身体を触れ合わせている。
「……この猿、何してんだ」
「セックスですけど」
 見ればわかるでしょ、と名字先生はすっとぼけた表情になる。
「烏養さん歳いくつでしたっけ。まさかそんなこともわからないってわけじゃないですよね。もしそうなら最近の男子高校生の方がよく知ってますよ。私なんてこの間騎乗位と後背位どっちが気持ちいいかなんて聞かれたんですから」
「……そういう意味じゃないだろ」
 溜息しか出ない。名字先生は本当に話がかみ合わない。武田先生は仲がいいようだが、一体何を思ってこの人と一緒にいれるんだろうか。
「いいでしょ、これ」
「どう考えたらそうなるんだよ」
「だって、永遠に止まってるんですよ、この子達」
「は?」
「だから、お互いに求め合ったまま止まってるんです。だれもこの子達の営みを途切れさせられないんです。永遠に愛しあったまま」
 ガラス瓶に触れる。ひんやりとした感触が不気味だ。透明な棺は、不気味だ。
「何、欲しくなったんですか」
「いらねえよ、こんなもん」
「ひどい」
 おどけた様子で名字先生は顔を両手で覆う。指の隙間から覗ける目が、馬鹿にした笑い方をしている。
「私烏養さんにならあげてもいいんですけどねえ」
「だからいらねえって」
「全く本気にしてないですね」
 指の間で彼女の目が強く光った。
「私、烏養さんになら、あげてもいいのに」
 彼女の目は沢山の光をたたえたまま、こちらを向いている。
「烏養さんが欲しがるんなら、みんなみんな、あげちゃうのに」
 そう小さく呟くと、完全に顔を覆ってしまった。
「何だ、それ」
「もうたんこぶ大丈夫ですよ、きっと。行っちゃって下さい」
「なあ、さっきのどういう意味だったんだ」
「部活戻らないといけないんじゃないんですか」
「第一見てないだろ、今の俺の後頭部の状態」
 いいから行っちゃって下さい。
 もう一度名字先生はそう言って、ガラス瓶を抱きかかえた。
 俺の後頭部は触れられたみたいにまた、ずきずきと痛み出した。

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