小さな音が聞こえる。小さな音はそこらを飛び回り、時折からだのどこかにぶつかる。くすぐったい。羽虫かなと暗がりで目を凝らすけど、何も見えない。どこを見ても、塗り潰されている。
「山口くん」
 山口くんはおどおどとした様子で私を見つめる。情けのない顔だ。私が山口くんと付き合っていることを、器口さんに初めて告白したとき彼女は、何で、というような少し引いたような目をして「下らないのにひっかかったね」と言い、その後、なよっちいじゃん、とも付け足した。彼女の言葉はほとんど正しい。たしかに器口さんの言葉どおり、山口くんはなよっちくて泣き虫で根性なしで、夜に彼女が名前を呼んだだけでびくびくするような情けのない男の子だけど、唯一、下らなくはなかった。
「ど、どしたの」
 山口くんは戸惑っているのか私の肩の辺りに手をさ迷わせる。触ってくれればいいのに、この根性なし。
「別に」
 臆病な山口くん。なんてかわいらしい人なんだろう。あるべき座標軸を探して漂う彼の指を捕まえ、思い切り自分の胸の前に引き寄せる。びくびくと引き付けを起こして抵抗を示す彼の指だけれど、そこにはっきりとした意志はなくなにを嫌がっているのかもあやしかった。
「ぼろぼろだね」
 山口くんが目を伏せる。うっすらとした膜のような影が眼球を覆う。まだまだだけどね。逃げるように早口で彼はそう言い、ぎゅっと唇を引き結んだ。
 山口くんの顔の輪郭をそっと指先で確かめる。かすかに震える凹凸の一つ一つが、こんなにも息を苦しくさせてしまうなんていったい誰が考えていただろう。
 唇をかるく触れあわせる。薄く引いたグロス越しに、かさついた彼の唇が歪むのがわかった。グロスを写し取ってきらきらと唇を輝かせる山口くんが、苦しそうに私の名前を呼ぶ。右手の親指で押さえた彼の喉が低くふるえた。
「大丈夫だよ、きっと」
 山口くんの、まるで男の人みたいに太い指が私の肩を痛いほど掴む。呼吸にともなうの動きにあわせて膨らんだり萎んだりする彼の手に自分のそれを重ねる。手のひらのやわらかい部分に、彼の、かたいささくれが当たる。OBに自主練をつけてもらってる、と言った時の、抉るような痛みを孕んだ彼の笑顔が蘇る。山口くん。大丈夫だよ、山口くん。
「だって、もう夜が明けるから」
 頭上でうっすらと闇を透かせはじめた東の空からは、ひばりの鳴き声が伸びやかに響いていた。

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