金田一くんの腕はとても筋肉質で長く太く、そしてあたたかい。彼のしなやかな腕に抱かれていると、深い森に分け入るような気持ちがして、私はひどく安心する。

 彼の胸を軽く二度指先で押す。しなやかな彼の筋肉は私の指先を力強く押し返した。
「苦しかったか」
 真正面から絡み付いていた腕を解き、私の肩口から顔を上げた金田一くんはすまなさそうに謝り、そしてとても傷ついたような顔をした。彼はとても力加減が下手だ。手を握るのも、私を抱き締めるのも、ひどく弱々しいかとても力強いかのどちらかで、そのことを金田一くんは悪い意味で気にしていた。だからこうして私が指摘すると、決まって彼は傷ついたような顔を無意識にしてしまう。それを見る度、私のお腹の下の辺りはきゅうきゅうとしてしまってしょうがなかった。かわいい。金田一くんはどうしようもなく、かわいい。
 そんな私をよそに、金田一くんはひどく落ち込んで、それからしばらく私に触れようとしなくなる。
 怖いのだ、と彼は言う。私は大丈夫だよ、と言う。彼はもう一度、怖いのだ、と言う。力加減が出来ずに、私をうっかり死なせてしまいそうだ、と彼は言う。そんなこと、と私は笑う。そんな素敵なこと、どうして恐がる必要があるのだろう。私は口に出さないながらも不思議に思ってしまう。
 けれど彼はしばらくの間決して私に触れようとしないのだ。私がどんなにお願いしても、私の指を撫でようともしない。私はその間、彼の温かみと苦しさが恋しくて、彼に触れてほしくてほしくてたまらなく切ない時間を過ごさなければならない。
 だというのにその時の私はうっかりそんなことも忘れてしまっていたのだ。私は最近、いろんなことを忘れる。
 膝に乗った私をおろそうとする金田一くんの胸にしがみつき「やだ」と駄々をこねる。金田一くんは困った顔で少しだけおろおろとする。私はまた、きゅう、と切なくなる。
「金田一くんになら、殺されてもいいのに」
「またそんなこと……」
 だってほんとのことだもん。拍動にあわせて薄く波打つ金田一くんの胸にそっと囁く。窓の外では昨日の夜から続く雨がまだ街を暗く塗り潰している。そういえば、金田一くんの家を訪れる際差してきたピンクのあの傘。あれは誰にもらったものだっただろうか。一緒によくあの傘に入った、とても紳士的でやさしかった男の顔を、私はよく思い出せない。
「ほんと。ほんとだもん」
 金田一くんの首にぎゅうときつく抱きつく。薄い布越しに、彼の血管が静かに膨れ上がるのをはっきりと感じ取った。穏やかな拍動に、私はまた安心する。
「金田一くんと一緒じゃないと死んじゃう」
「死にやすいんだな」
 金田一くんが、ぷすっと笑いながら言う。金田一くんの体の強ばりが雪解けのように少しずつ溶けていく。私は嬉しくて「金田一くんにだけだよ」と言った。私の体の至る所はさっきからきゅうきゅうと鳴って仕方がない。頭の奥は気持ち良くてうまく動かないし、心臓はいやに早く働くだけで酸素を回そうとはしない。
「金田一くんだけなんだから」
「はいはい」
 金田一くんはそういいながら窓の外へ視線を逃がした。
「雨、止まないね」
「遊園地、行けなかったな」
 金田一くんはそう残念そうに行った。きっと行きたかったのだろう。けれどここから電車を乗り継いでいくような辺鄙な場所にある遊園地には、たとえ午後から晴れて出かけたとしても閉園時間に間に合うかすらも怪しい。人だけが際立って多いだけの場所のいったい何が楽しいのかはさっぱりだけど、彼が残念ならば私も残念だった。こんなとき、私は心から金田一くんが好きなのを実感する。でなければ、どうして。
「また行こうな」
「うん」
「約束だから」
 金田一くんはそう言ってゆっくりと、そして少しぎこちなく私の首に腕を回す。私は半分泣きそうになりながら、彼にされるがままになる。
 あたたかな彼の腕のなかで、目を閉じる。ごめんね、金田一くん。

 雨は部屋の外で降っていて、少しずつ狭まる彼の腕のなかで私は守られるように抱き締められながら幸せな終わりを待っている。

 もう私の指は彼の胸を叩かない。

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