彼を一目みたとき、この人は同じだとすぐにわかった。それは野性の獣たちが誰に教わるでもなく交尾をやってのけるのと同じように、ほぼ直観的なものだった。そしておそらく彼も、私の本質を見抜いただろう。私はそう確証もなく頷くことができる。私たちは出会った瞬間にまるで交尾かまたは恋に落ちるかのように、お互いを深く理解したのだ。目の前にいるのは自分と同じ、決して幸せにはなれない人間だ、と。
高校生の男女が入店し、無機質だったコンビニの店内が僅かに賑やぐ。店長が、「高校生は元気でいいねえ」とぼやく。
「元気がない高校生でスイヤセン」
「いやだなそういう意味じゃないよ」
店長の対応はそこそこに、スイーツコーナでたむろする高校生たちを盗み見る。「ツキシマくんは何にする」女子の甘く華やかな声色にツキシマと呼ばれた男子は「なんでもいいよ」と短く答える。近くの公立高校の制服を着た彼らは入学したばかりの一年生なのか、ここ最近この店によくあらわれるようになった。ツキシマくんはヤマグチくんという男の子ともよくここを訪れる。ヤマグチくんは、よく喋る。ツキシマくんも、その時はいまよりほんの少しながら饒舌になった。
ミニスカートの女の子が、ツキシマくんを盗み見る。この前は三つ編みで、その前は赤いペディキュアをしていそうなこだった。彼は大抵、違う女の子を連れてやってくる。そしておそらくだが、その内の誰にも心を開いてはいない。
ツキシマくん。彼女らに名前を呼ばれるたび、彼は口角をあげてみせるけれど、それはただの筋肉の微細な収縮または弛緩であり、そこに好意だとかは存在しない。排泄と同じ、義務めいたものを感じさせる彼の笑み。
店長は私の横に立って、彼らからは見えないようカウンターの陰に隠れて私の指に触れてくる。あと少しでバイトは終わるけれど当分は家に帰れなさそうだ、と指先を好きに遊ばせたままにぼんやり蛍光灯を見つめた。
結局何も買わず店を後にしようと自動ドアの下をくぐる直前、ちらりと彼がこちらを盗み見た気がした。
「もてるねえ」
ツキシマくんと彼女の背中を見送ったあと、在庫保管部屋で店長はぼやき、そうみたいですねえ、と私は答える。
「うらやましいねえ」
店長は私の足の間に自分のそれをねじ込みながら、むひゃむひゃと笑い、そうですねえ、と私は日めくりカレンダーを破りながら答える。
「しあわせだねえ」
私はそんなことない! と大きな声を出したかった。何も理解していないくせに、と隣に転がる大型のステップラで店長の頭をぶん殴りたかった。何も理解していないくせに、私たちの苦しみを。私たちが如何に苦しいのか、辛いのか、何も知らないくせに。幸せだって? いったい何のことを言っているのだろう。幸せなのはいつも、店長自身や、ツキシマくんのまわりで消耗される女の子たちだ。体液を撒き散らしながらそれを押しつけて気持ち良くなっているのはいつだって彼らの側だ。下らない自慰につきあわされる私たちはいつもその一人よがりな汚物の中にうめられている。
エプロンの上から私の体をまさぐる店長の靴のうえに落ちた日めくりカレンダーをみて、何も言わずにただ黙って店長のシャツの襟を強く引いた。首筋にかかる店長の熱くて生臭い吐息がただただ、不快だった。
一度だけ、彼とまともに口を利いたことがある。よく晴れた、絵に描いたように穏やかな土曜日の午後。私は店長に店の前の掃除とごみ箱の中身の回収を申し付けられていた。彼はその時一人でこの店に現われた。もう何度かお客としてその顔を見たことがあった私は「いらっしゃいませ」と言った。けれど彼は店内には入らず、店の前でゴミを漁る、ゴキブリみたいな女の横にいつまでも立っていた。
「どうかしましたか」
私はその時彼に対して、漠然とした、形のない不安定な恐怖を抱いていた。彼の口から飛び出た言葉が、私のどうしようもない部分に触れてしまうことを空想しては、恐れていた。薄い傷口が破れて強い臭いを放つ膿が溢れだすと、信じて疑わなかった。通常、人が見逃すような薄いしこり。けれど確かに彼は気付いていたはずだった。私の、または彼自身の偏りについて。
開け放たれた扉の奥から袋を引きずだされたごみ箱は、解剖されて剥きだしになった内臓を想起させる。漏れ出る、独特のにおいは不規則に吹く風に攫われ、そこかしこに散らばり落ちていた。それをどこから嗅ぎつけた、勘のいいカラスたちは手近な電柱や鉄柵にその羽を休めている。腹をすかせた彼らは揃ってその眼を欲望に濡らしている。貪欲な、全てを食らい尽くそうとする眼。それは私を在庫保管庫に連れ込んだ店長や、ツキシマくんの周りを衛星のように飛びかう女の子たちと同じ光をたたえていた。彼らは底無しの胃袋を持っていて、薄い唇で肉をはみ、その骨までしゃぶることを欲している。搾り取れる水の一滴まで逃さず喉の奥に納めたがっている。けれど屍肉を食らい尽くしたとしても彼らは決して満たされず、何度も私たちを補食した。
ツキシマくんはゴミ袋を見、カラスを見、そしてまたゴミ袋を見た。そして何の感情も浮かばない無機質な眼でたった一言、「かわいそうですね」と言った。
身体の末端からどんどんと血液が引き潮のように引いていき、存在ごとなくなったのかと疑ってしまうほど感覚がなくなっていった。半分透き通ってしまった足を薄く揺らめかし、私は泣き叫びたくなりながらも、カラスたちの視線に縫い止められたまま、どうしようもなくいつまでも彼のそばにしゃがみこんでいた。
「かわいそうに」
ツキシマくんはそう言い、私の肩にそっと手を乗せた。掴む、というよりもずっと軽くやわらかな接触だった。触れ合った部分はじんわりと熱を持ち、徐々に質量を取り戻していった。店長が私を呼ぶ声がガラス越しに聞こえた。けれど彼はそれを無視して黙ったまま私の肩の輪郭線を何度も確かめていた。しばらくして、私は口を開いた。
「店長が、呼んでるから」
「いいよ、行かなくても」
「だけど、呼んでるから」
ツキシマくんの指先がそっと私から離れる。私は彼の熱を名残惜しく思いながらも、立ち上がる。その間に細い光の糸がちらりと見えたような気がして私は目を細めた。
「それじゃあ、さようなら」
そう言い残して私は店へと戻り、エアコンのかすかな冷気を浴びながら数歩進み、振り返ると、彼はこちらに背を向けゆっくりと歩きだしていた。柔らかそうな猫毛がひだまりのなかで美しく光っていた。
それ以来私たちは顔を見合わせてもろくに口を利いたことがない。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」時折「あたためますか」けれどその合間に、私たちは見つめあう。ごく自然にどこの店員と客もするように。そして不自然でない程度にそれより長く、見つめあう。
彼の眼は何も求めていない。空腹かどうかは関係なく、ただ一切のものを拒絶している。私のどこも、食べたがっていない。そして私も、彼から何かを与えられたくはなかった。お腹をすかせた獣を携えながら、私たちは見つめあうことでお互いを労り、嘆いた。
「ありゃ、またあのこだ」
ガラス製の扉がゆっくりと押しあけられるのを見て、店長は隣に立つ私にだけ聞こえるような、小さな声でつぶやいた。現われたツキシマくんはまた、知らない女の子を据えている。「うらやましいねえ」と店長は下世話な視線をツキシマくんの身体に這わせた。
女の子はツキシマくんの手首に自分のそれをこつこつとぶつけながら店内をねり歩き、並べられた商品一つ一つを丁寧に見つめる。「こりゃ長いな」と店長はやる気と関心を失い、のろのろと私を引きつれて在庫保管庫へと生息区域を後退させた。
「他の店員いないんですよ」
「まだ時間かかりそうだったから大丈夫だよ」
「お客さん、まだいますよ」
「知られたところで別にかまわないよ」
それとも怖いの? 店長は首を傾げてじめっとりと笑う。私は妙に疲れてそれ以上何も言わなかった。店長は私の肩に顎を乗せて私の耳を舐める。いやな熱を持つ太いそれは一つの生きもののように耳のなかを雨季のジャングルのようにじっとりと濡らす。私が不快さに息を少し洩らすと、店長は何を勘違いしたのか私の胸をまさぐった。
喉元にせりあがる吐き気を堪えていると、金属光沢の眩しい扉の上部に取り付けられたガラス窓のなかにツキシマくんがいることに気が付いた。ツキシマくんは何かを言っている。私は店長に耳を舐められて胸をまさぐられながら五感の全てを彼に委ねる。けれど何も聞こえない。私たちの間には透明な、けれど確かな壁が存在する。ねえ、ツキシマ、くん。
「…………、……」
繰り返し同じ形をかたどった唇がいったい私に何を伝えようとしているのか。彼の透き通った眼には店長の背中の端からのぞいた私の顔が少し歪んで映っている。私は濁った水の中で酸素を欲しがる魚のように身体を捩らせ彼を見た。彼がガラスに指を張りつける。私は彼に手を伸ばす。光の糸は私たちをつながない。どんどんと際限もなく薄く透き通っていく私は彼の言葉が欲しくて、一層腕を強く伸ばす。