「また随分と可愛い彼女を作ったんだね」
 ぶんぶんと俺に手を振り図書室を後にする一ヵ月前から付き合いだした後輩の女子を見て、名字はのんびりと言った。そこには一片の皮肉もなく、ただ容姿に対する彼女の真摯な称賛だけが含まれていた。
「そんなこと言って俺が顔だけで判断してるみたいな言い方」
 そういうつもりじゃないよ、と苦笑いをする名字の横顔を見ているとまるで彼女に難癖を付けているような気分になる。いや、実際に俺が名字に対して行っているのはそんなところだろう。彼女の意図を汲んだ上でいつも揚げ足をとるような発言ばかりを繰り返しているのだから。
「いつもはサボって一緒に帰っちゃうんでしょ? 貸し出しは一人で大丈夫だから及川くんはいつも通り帰っていいんだよ」
「委員会を口実に名字さんと一緒にいられるから遠慮しとくよ」
「またそんなこと言って。可愛い彼女さんが泣いちゃうよ」
 適当に俺の言葉をあしらい、名字は視線を手元の文庫本に落とす。
「俺の彼女そんなに可愛い?」
「うん、みんなみんなね。選んでるくせによく言えるね」
 名字はページをめくる。本を読みながら会話が出来るなんて全くたいした特技だ。彼女の頭の構造を疑いたくなる。
「性格も重視だよ」
「何言ってんの。女の子は顔で価値が決まるんだよ」
 名字はこちらを一切見ずに笑う。俺の言葉を笑っているはずなのに、まるで文字に笑いかけているようだ。
「女の子はね、男の子のおまけなの。男の子のステータスを決める一つの道具」
 それだけ言って名字は貸し出しにカウンターを訪れた下級生の応対をする。本は村上龍の、海の向こうで戦争が始まる。本の形をしたものなんてせいぜい漫画くらいしか読まない俺にはそれがどんな内容かどころか作者が誰かもわからない。ムラカミなんてハルキくらいしか知らない。そしてそれすらも読んだことはない。だから俺はやけに長ったらしいタイトルだとしか思わなかった。読みたいなんてちっとも。まず表紙がダサすぎる。
 俺は本を受け取った背中が出入り口へ消えていくのを見届けてから口を開いた。
「ねえ名字さんは今の本知ってる?」
 名字は貸し出しカードを整理しながら「村上龍の?」と言い、勿論ながら「知ってるよ」と頷いた。やはり名字は知っていた。そして俺は名字が知っていることを知っていた。それは、いい趣味、と名字が呟いたのを俺が聴き拾っただけのことだったが、俺はなんだか名字に勝ったみたいで気分がよくなった。
「どんな内容?」
「あるビーチに男がいて、そこから海を挟んで向かいの街を見ながらそこで戦争が起きればいいのにと思ってたの。街の人も戦争が始まればいいのにと願い始める。すると本当に街で戦争が始まって、戦争を望んだ人はビーチの男以外みんな死んでしまう。男はビーチでコカインを打ちながら戦争を見て興奮するって話。うん、確かそんな話だったよ」
 俺はそれを聞いて「何それ、変な話だね」としか返せなかった。全く変な話じゃないか。望んだ力がその戦争とやらを引き起こしたというのか? 全くもって意味不明だ。そんな話のどこがいいのか、どのあたりがいい趣味なのかちっともわからない。名字はどうやら俺とは大きくかけ離れた感性を持っているらしかった。
「一度読めばわかるよ」とだけ名字は言って、また手元の文字に集中する。そういえば今日はまだ一度も名字の顔をまともに見ていない。恐らく彼女にそんな気は全くないのだろうけれど、ちっともこちらを見ようとしないのだ。無自覚なら無自覚で、それは少しだけ俺の心を痛めつけた。
 俺は、名字の、どこか河原に落ちている丸みを帯びた石を思い起こさせる横顔を見つめる。名字はやっぱり目を伏せたままでいるので、俺と名字の視線は交わらない。俺は急にそれがとてもつまらなく感じて、再び名字に話しかけた。名字を振り向かせようと、突拍子もない話題を彼女に振る。
「俺、次の彼女名字さんにしようかな」
「今の子嫌いなの? そういえばいままで委員会なんて出ずに一緒に帰ってたらしいもんね」
 全く俺の発言を取り合わない名字にいい加減嫌気が差して「だからそれはペアが名字さんじゃなかったからだよ」と諭すように言い聞かせる。それでも彼女は一向に顔をあげようとしないので、俺は今度こそ動揺させてやろうと名字の体に擦り寄る。
「名字さんの言う通り、もし人の価値が顔で決まるんなら俺は申し分ないでしょ。きっと名字さんにも悪い話じゃないと思うなあ」
 俺名字さんのこと好きだし、と作れ得る限り最高の笑顔で彼女に笑いかける。けれど結局今回も顔を上げなかった名字にそれがわかるはずもなかった。
 さらに甘えるように名字の髪へ指を差し入れようと手をさし伸ばす。けれど彼女はそれをなんでもないかのようにやんわりと袖で払った。俺の手首には冷えたシャツの袖がすれて、その温度が少しだけ乗り移る。
「私がしたのは女の子の話だよ。残念だけど男の子はそんな簡単じゃないの」
 俺は自分の手首をぼんやりと眺めながら彼女の話を黙って聞く。
「女の子はどうせ結婚したら家庭に入る場合が多いでしょ。だから顔だけでいいのあとはある程度の常識があればなお良しぐらいかな。でも男の子は違う。男の子は多くの場合働かなきゃいけない。だから顔だけなんて甘いこと言ってらんないの。お金とか地位とか頭とか他にもいっぱいいるんだよ」
「じゃあ学生身分のうちは無理だね」
 肩をすくめて俺が言うと、名字は体をゆすって笑った。
「他にもいっぱいとも言ったでしょ」
「じゃあ他には何がいるの」
 いい加減苛立ちを隠しきれなくなった俺を、また名字は一笑に付す。
「数えだしたらきりがないけどあえて言うなら、男の子が女の子にふさわしいかどうか、かな」
 彼女はそう言った後、不意に何かに勘付いたように顔を上げた。ようやく俺をまともに見る気になったのかと思ったが、名字は相変わらずこちらを見ずに、静かに、そして熱心に入り口のほうへと視線を送っていた。俺はまたつまらなくなり、そちらに何があるのか確認する気も失せた。だから名字が唐突に「私そろそろ帰るね」なんて言った理由がすぐにはわからなかった。
「え?」
「え? 自分は何度もしておきながら私のときだけ責めるの?」
 名字は不思議そうに笑いながら俺の承諾なんて聞かずにてきぱきと荷物をしまう。そして笑みを一層濃くして遠いところに、笑いかけた。
「あ、もういいんすか」
 不意に聞こえた誰かの声に俺は反射的にそちらを見る。声のした方彼女の視線の先には入り口の扉に添って金田一が立っていた。状況の理解に少し手間取る。呆然とする俺に数秒早く金田一が気が付き、慌てながら頭を下げた。そこでようやく全てを把握した。これは。
 動揺する俺を意にも介さず、「いいよね、及川くん」なんて名字はあっさりと長い髪をふって俺の返事も無視したまま、いともたやすく敷居を越えてしまう。ちょっと待ってよ名字さん、なんて言葉は喉の奥に張り付いてうまく出てこなかった。砂嵐が起きているようだった。そんなばかげた考えを俺は二人の姿を見て確信に変える。引き戸の枠組みはちょうど額縁のようだった。そしてその中にいる二人は完成された一枚の絵画のようだった。何故だ。どうして。そこは金田一に相応しいはずなどないのに。俺のほうがずっと金田一なんかより。ずっと、ずっと。
 俺の舌の付け根より深いところにある砂嵐は、釈然とした疑問を中心に抱いて回り続けていた。そこに、名字の「残念だけど男の子はそんなに簡単じゃないの」という声が響いた。砂音は何故かそれをかき消さない。名字の言葉は無限に響き続ける。
 行こ、と名字は金田一の手首を軽く掴んだ後それを直ぐに放した。気をひくためだけの動作だったのだろうか。そしてそっと顔を覗き込む。なにかを、聞き取れない何かを、優しい声で言っているのだけわかった。金田一はそれに頷き、俺に軽く頭を下げてから揃って真四角に切り取られた枠組みの外へ出て行く。俺の目の届かないところへと、進んでいく。
 俺はそれを見つめながら、自分の手首をさすった。金田一の手首は今、温かいのだろうか。
 俺は幻の温度を自分の手首の内側に描きながら、戦争を望んだビーチの男は何か罪に問われないのか考えていた。そしてもし金田一が名字を顔だけで選んだのだとすれば、金田一を、彼を殺してやろうと心に決めた。

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