42日目の幸福
その週の金曜日は仕事だった。
夏休みの特別展に向けてずっと用意していたのだが、連絡の行き違いで資料が揃わず休日が潰れた。展示パネルの発注が今日までだったのだ。
その代わり明日の土曜は休みを取ったので透と海沿いをドライブする約束をしている。
懸念してた準備も間に合ったし、業務終了後に慰労会として同僚達との飲み会に参加することにした。
僕は一旦家に戻って駐車場に車を置き、タクシーで飲み会会場として指定された料理屋に向かった。
それは居酒屋ではなくイタリアンレストランで、ワイン飲み放題プランがあることで人気が出た新しい店舗だった。
僕が職場の飲み会に参加するのは珍しいので驚かれたが、たまにはこんなのも良い。
「今日は本っ当にヒヤヒヤしたよな!間に合わないかと思ったー」
「そうだな」
同僚の倉田君とは年がひとつ違いなだけあって、職場の中では一番気安い。
公私を分けたい僕は職場では友人を作ることはしないが、倉田君だけはその位置に近い。
「俺、次普通にビールいってみようと思うけど、松浦君は?」
「白にしようかな」
イタリアワインの白。飲んだことのないカジュアルな銘柄だが、他のワインが飲みやすくてなかなか美味かったので白も試してみたいと思った。
味を覚えておいて透とまた来るのもいいだろう。店の雰囲気も料理の味もいいし、いつも彼にばかり店を紹介してもらっているから。たまには年上としてリードしたい。
そんなことを考えながらついにやけてしまうと、倉田君が人の悪い笑みを浮かべた。
「もしかして彼女連れてまたここに来ようと思ってる?ん?」
「そ、そういうわけじゃ……」
そもそも恋人などいない。何を勘違いしているのか知らないが、倉田君の笑顔がいやらしい。
「僕は別に、恋人はいない」
「あ、そーなの?そっかー勘がはずれたなあ。最近、松浦君がやけに浮かれたり落ち込んだり忙しいからてっきり彼女でもできたのかと思った」
「え……」
そんなに顔に出ていただろうか。思わず頬を撫でてしまう。
「てか、こういう話するなオーラが出てたから今まで聞けなかったけど、気になってる人くらいいるでしょ?」
「気になる、人……」
一瞬で何人かの顔が浮かぶ。一番大きく浮かんだのは透だ。
「……どうかな」
「まあ、あんまプライベートなこと俺だって職場で話したくないしな。すまん、首突っ込みすぎた」
そうは言うが、彼女が作ったという可愛らしい弁当を毎日見せびらかしている倉田君だ。そういう話は好きなのだろう。かといってそれに乗る気はないが。僕は曖昧に頷いた。
倉田君は柔らかく笑いながら来たばかりのビールを掲げた。
「もし何か相談したくなったら言えよ。同僚のよしみで聞いてやるからさ」
「頼もしいな」
苦笑しながらワイングラスを傾けた。甘すぎない白ワインが、乾いた喉を潤した。
家に帰り着いた時はすでに十一時を回っていた。明かりが消えているから透はもう寝ているのかもしれない。
物音を立てないようそっと家に入る。すると透が玄関先に顔を見せたので僕は驚いて彼を見上げた。
「……部屋が暗かったからもう寝てるのかと思った」
「ううん、起きてDVD見てたよ。おかえり?」
「ん、ただいま」
そうか、照明を落として映画でも見てたんだな。自分の家なのに調光機能など使ったことがなかったのだが、透はあれこれと家中のシステムを試しては上手く利用している。
スーツの上着を脱ぐと、承知したようにそれを受け取ってくれる透。僕が服を脱ぎっぱなしにするのを見かねてハンガーに掛けておいてくれる。
おまけに何も言わないうちにコンシェルジュにクリーニングにも出してくれるので「若いのに良く出来た家政夫さんですね」とコンシェルジュの係員にからかわれたことがある。
いつの間にか彼女とも顔見知りになっていて、すっかりこのマンションの住人だ。本当に透の順応力には舌を巻く。
透はそれ以上何も言わずにリビングに戻って一時停止した映画を再開した。
……いや、何か変だな。珍しく透が不機嫌な気がする。
理由は思いつかないが、大学で嫌なことでもあったのかもしれない。
そう思いながら僕は煙草とアルコールの臭いを落とすためにすぐに浴室へ向かった。
熱いシャワーが気持ち良い。シャンプーで脂を落とし、一日の汗を流す。そうすると疲れがさっぱりと取れる気がする。
明日のドライブはどのあたりから海に出ようか。
海沿いをまっすぐに走れるところがいい。暑くなってきたから車を止めて浜辺を散策するのも楽しそうだ。
そして夜には透を連れて今日行った店にまた行こう。カジュアルな雰囲気だったから、学生の透でも気取らずに食事ができると思う。
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