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ジンイェンの言った言葉の意味がわからず、エリオットはぽかんとした。

「だって、アンタは夫だったんでしょ?なのに奥さんの思い出話もしないなんて、奥さんとアンタが過ごした時間まで忘れ去ろうとしてるみたいじゃない?」
「ティアンヌを忘れたことなんて――」
「でも人に話さないでアンタの中だけにしまっておいたら、アンタに見せてた奥さんの顔は誰にも知られないってことでしょ」
「……!」

今まで周囲の人間は極力その話題には触れず、妻の死を悼むエリオットを慮って丁重に扱ってきた。そしてエリオットもその境遇に甘んじてきた。
それを真っ向から否定され、動揺でグラスを持った手が震える。

「つらい記憶ってのも誰かに話しちゃえば結構自分の中で整理がつくもんでしょ」

悔しいがジンイェンの言うとおりだろう。
それをせずにひたすら自分の殻にこもっていつまでも悲しんでいたエリオットは、ティアンヌに対し失礼なことをしていたのかもしれない。
頭を槌で打たれたかのように頭痛と眩暈がする。手をこぶしに握るとじっとりと汗をかいていた。
堪え切れず、エリオットの淡い色の瞳からぽろりと一筋涙が落ちた。

「……エリオット」

ジンイェンの静かな声に我に返り、エリオットは逃げるように居間をあとにした。
書斎に逃げ込むと、エリオットは窓辺のカーテンを両手で掴んで顔を埋めた。目を瞑ると先刻の醜態が思い出された。様々な考えが浮かんでは消える。

こんなことはずっとなかった。
誰かとの食事を待ち望むことも、他愛のない会話を楽しむことも、感情的に大声を出すことも、笑うことも。
――涙を流すことも。
ジンイェンの言葉にどうしてあんなにも動揺したのか、何故もう何年も出なくなったと思った涙が出てきたのか――考えがまとまらない。

小さくノックの音が聞こえる。
エリオットは応えずにいたが、ジンイェンが返答を待たずに室内に足を踏み入れてきた。

「……俺ちょっと無神経だったね。ごめんエリオット」
「…………」
「偉そうに言ったけどさ、さっきの、俺が他の奴に言われた言葉なんだよね」

顔は見えないが自嘲気味に言うジンイェンの表情をなんとなく想像する。
他人からそう言われるほどに、彼にも自分の中にしまいこんでしまいたくなるようなつらい記憶があるのだろうか。

「……あんまり愉快な話じゃないから、アンタには聞かせたくないけど」
「…………」
「知りたい?」

言いながらジンイェンが近づいてきて背後から穏やかな声で囁かれた。
彼は相変わらず足音のしない歩き方で、エリオットには突然声が近づいたように感じられた。

「……エリオット?」

ジンイェンらしくない気遣わしげな優しい声音に誘導されるように、エリオットはカーテンから顔を出して彼の方に体を向けた。

「……いい。聞かない」
「そう?」
「いや、というか……僕の方こそみっともない所を見せてしまったな、悪い……」

きまり悪くぼそりと言ったエリオットをジンイェンは決して笑ったりしなかった。
意外に思ったエリオットが顔を上げると、ジンイェンの神妙な表情が目に入った。
――不意に二人の視線が絡まる。
ジンイェンは潤んだ瞳のエリオットを間近で見て息を呑んだ。虹彩が金色を含んだ濃い緑色をしている。それは宝石のような光と透明感を湛えていた。
エリオットもまた、間近にあるジンイェンの切れ長で涼しげな灰色の瞳や、口元のほくろが気になって仕方がなかった。

しばらく互いに見つめ合っていたが、エリオットのほうが先に逃げるように目を逸らした。
するとエリオットはジンイェンにそっと抱き寄せられた。そうすることが当然のように思えて、何も言わずにされるがままになる。
ジンイェンの肩に鼻先をうずめると、抱き込む彼の腕に力が込もった。

こうして他人と触れ合うのも何年ぶりだろうかとエリオットは漠然と考える。出会った当初はあんなに疎んだ男なのに、今はその体温が心地良いだなんて。
ジンイェンの服から香る薄荷やシナモンのような甘く爽やかな匂いが直接鼻腔に広がり、眩暈がする。
香水なのか料理用の香辛料なのかは判然としないが、足音も気配も少ない彼の存在感が初めてはっきりと感じられたように思えた。

「ジン……」

唇の隙間から吐息交じりの囁き声が思わず出てしまう。するとジンイェンがそっと体を離し、その手で頬をするりと撫でた。
ジンイェンの熱い吐息が間近に感じられる。
そのまま彼の薄い唇は、エリオットの唇と緩やかに重なった。
唇は軽く触れ合ってすぐ離れる。どこか現実感のないキスに、エリオットはぼんやりと彼を見つめた。
ジンイェンがゆっくり離れると、二人の間に空気が入って肌寒く感じた。

「ジン……?」
「――おやすみ」

もう一度ジンイェンはエリオットの頬を撫で、そして振り返らずに書斎を後にした。


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