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そうしてようやく部屋に静寂が訪れる。思った以上に静かになって、かえって気まずさを感じた。
とはいえ時間も差し迫っていたので、この機に落ち着いて講義を――というところで、何を思ったか、セリーナが侍女に目配せをして耳打ちをした。
侍女が再び退室する。ところが今度は部屋の外で姿が見えないよう待機し、戻って来る気配がなかった。
これだけ距離が開けば少し声を抑えるだけで話している内容も聞こえなくなる。つまりセリーナは、ブノワのいないタイミングで何か内密の話をしたいようだった。
思った通り、次にセリーナは控えめに口を開いた。てっきりリアレアに関する頼み事かとエリオットは見当をつけたが、そうではなかった。

「先生。ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」

セリーナの表情がきゅっと引き締まる。緊張しているように彼女は肩を強張らせた。

「あの……宮廷魔法使の、トリスタという名にお聞き覚えはありますか?」

囁きに近い抑えた声音でセリーナの口から出てきた名前に、エリオットは意表を突かれた。
宮廷魔法使のトリスタといえば見習いの子弟である少年だ。そして現在、エリオットの世話係でもある。

「それは、トリスタ・ガルムント殿のことでしょうか」
「……! ええ、そうですわ!」
「私は今、ティナード旅団長の下に就いています。トリスタはティナード旅団預かりの子弟ですので、彼には生活周りの細々としたことを世話になっております」

セリーナとトリスタの繋がりが全く想像できず、かといってその事情を深く聞いて良いものかどうかエリオットは迷った。
ところが彼女のほうから話の糸口をぽつりと零した。

「あぁ……トリスタは今もまだティナード様の庇護下に置かれているのですね。安心しました」
「まだ、とは?」
「……先生はご存知でしょうか。トリスタが以前――プリエンテ家の使用人だったことを」

エリオットは一瞬、セリーナの言葉にうろたえた。
宮廷魔法使になるには実力もさることながら家柄も無視できない。ところがトリスタは貴族や富豪の出身らしさを感じられず、一方でひと通りの教養を身につけていた。
使用人――この肩書きが、これ以上なくしっくりくる。
低位の者が富裕層の家で働きながら教養を習得するのは珍しいことではない。エリオットの生家でもあったことだ。
貴族の館に仕えていたというだけで、その後の食い扶持に困らないこともある。そのために、自分の子を奉公働きの売り込みに来る親も多い。
そういう意味では公爵家の従僕なら申し分ないだろう。

「いえ……初めて知りました。廷内の事情に疎く、申し訳ございません」
「無理もないことでしょう。トリスタは、この家でもそうでしたし、宮廷魔法使でも少し……他と違っている立場だと思いますので」

その口調にどこか寂しさが滲んでおり、エリオットはもっと彼らのことを聞いてみたくなった。
そしてセリーナも、誰かに聞いてほしいというような表情で見上げてきている。

「聞いていただいでも良いでしょうか、先生」
「私でよろしければ、ぜひ」

――トリスタ・ガルムント。
ガルムントという姓はプリエンテ家から与えられたものだ。少年に、もともと姓はなかった。
オルキアより南西の、ローグローグの森に程近い場所に位置する極小国がトリスタの故郷だ。
帝国の属国ではあるが、貧しく、国を盛り上げる資源も特産品もない枯れた土地である。

オルキア親善大使でもあるプリエンテ夫人は、慈善活動として孤児院の視察や寄付なども積極的に行っている。
その国の視察で訪れた、ある村の孤児院にいたのがトリスタだ。
プリエンテ夫人はトリスタを引き取り、養父母を宛がったのち、プリエンテ家の従僕として迎え入れたのだ。それは七年前のことで、当時トリスタは十の子供だった。

そこまで聞いたエリオットは、話の途中ではあるがどうしても気になってセリーナに問うた。

「……その、何故トリスタを?ここにはそういった子供が他にも?」
「母が養育先をお世話することは、時々あります。けれどこの家に迎え入れたのは彼だけです。どうしてトリスタだけがそうなったかは分かりません。
 あの母のことですから、院長様と何かお話があったのか、ただの気まぐれか……。私たち姉妹には『とても賢い子だから』と――母はそれだけ説明しました」

プリエンテ家で四年間働いたトリスタ。しかしやがて彼が魔術を使えるということが判明したのだ。
トリスタは精霊が見えることも、拙いながら術を使えることも誰にも明かしていなかった。それを見出したのがティナード旅団長だ。
ティナードは、少年が魔法使としての才に優れているとして、プリエンテ家から引き抜き己の下に置いたのだ。
そこでどのような話し合いがなされたかはセリーナは知らない。ただ、ある日突然、トリスタがセリーナにひとこと別れの挨拶をして初めてそのことを知ったのだった。
エリオットはそれを聞いて首を傾げた。

「セリーナ様は、トリスタと交流が……?」
「はい。トリスタはよく、庭の木陰で小さくうずくまっていましたから」

冒険譚や空想が好きで上の姉二人に爪弾きにされていた末娘のセリーナは、家の中では一人を好んだ。
――出会いは偶然だった。
その日は庭の土の中に宝物を埋めようと思いついたところだった。宝石箱の中にお気に入りのリボンを入れて、誰にも見つからない場所に隠すという子供らしい遊びだ。トリスタとはそのときに出会った。
公爵家の姫君と下層の従僕が口を利く機会など、まず有り得ない。しかし少々変わり者で幼いセリーナは、トリスタと屈託なくおしゃべりを始めたのだ。

「それまでの環境と一変して宮廷勤めに慣れない彼は、よく腕や足に痣を作っていました。私も、覚えが悪く不出来な娘ですから、トリスタの気持ちには共感できました。
 だから彼を元気付けるためにお菓子をこっそりあげたり、読み終わった本などを渡したりしました。トリスタには施しだと思われていたかもしれませんが……」

それは身分差が開いている二人にとって、十分すぎるほどの親愛の示し方だ。
その後、トリスタという話し相手をなくしたセリーナは、プリエンテ家の護衛役だった前代・第十二旅団長に少年のその後の待遇などを尋ねた。
だが、同組織とはいえ旅団長同士はそれほど気軽な間柄というわけでもなかったゆえに、待遇の詳細などは教えてもらえなかったのだ。

一方でそんなちょっとしたきっかけから、彼女は第十二旅団長と親交を深めることになる。
その末の例の妊娠騒動だと思うとエリオットは偶然の巡りあわせを奇異に感じた。
そうなるに至った経緯については彼女の心に秘めた想いであるそうで、エリオットには詳らかに語らなかった。

第十二旅団長の交代劇によりプリエンテ家が宮廷魔法使組織を極力遠ざけたこともあり、セリーナはトリスタのことを聞く機会がなくなってしまった。
ところが宮廷魔法使に繋がるエリオットが教師役に就いたので、セリーナはこのときをずっと心待ちにしていたのだった。
なのにそれをずっとブノワに邪魔されていたのだ。ようやくその機会が巡ってきた嬉しさからか、堰を切ったように彼女の口は止まらなかった。

「トリスタはきっと真面目にお勤めをしているのだと思います。けれど彼は、出自に引け目を感じているところがありましたし、もしも環境に馴染めていないのではないかと思うと……」

セリーナが徐々に表情を曇らせる。
心優しい姫君という前評判に違いはなかった。トリスタに相感ずるものがあるせいなのか、彼女は心から少年を案じているように見える。
エリオットは彼女に柔らかく微笑みかけた。

「――私はこちらに来たばかりで、廷内の事情をさほど存じておりません。ですが、トリスタは目端が利きますし、実に立派な仕事ぶりだと私には見受けられます」
「ああ……その言葉を聞いて本当に安心しました」

言いながらセリーナは、膝の上に置いた宝石箱をそっと撫でた。

「実はこの石も、お別れのときにトリスタからもらったんです」
「なるほど、そうでしたか。セリーナ様が大切にしておられると知れば、彼もきっと喜ぶと思いますよ」

エリオットがそう答えれば、セリーナの表情がパッと明るくなった。丸い頬に赤みが差す。

「ぜひ、先生からそのように伝えていただきたいです。それと、『トリスタが健やかに日々を過ごし、魔法使として活躍することを祈っています』と」

トリスタと別れた当時、セリーナは幼すぎて何も伝えられなかった。ただ、大事な友達が突然いなくなることに、どうして、なぜ、と泣くばかりだったのだ。
そのことをずっと気に病んでいたものの、仮にも公爵家令嬢という体裁の手前、元使用人に対し親しいことを大っぴらに明かすことができなかった。
そんな彼女の気持ちを汲み、エリオットはしかと頷いた。

「承りました。必ず伝えます」

するとセリーナは、上目遣いでエリオットを見るともじもじと体を揺すりはじめた。

「それからもう一つ……図々しいお願いですけれど……アリーにお手紙を渡してほしいのですが」

頬をほんのり染めて目を瞬かせる少女に、エリオットは思わず吹き出した。
少女らの心境にもはや同情してしまっているエリオットが快諾すれば、リアレアと同じくらいかそれ以上に分厚い手紙を持たされた。


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