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軽装馬車でプリエンテの敷地を出たエリオットは一気に疲労感に襲われた。
思った以上にややこしいことになってしまった。
本来の職務は別としても、エリオットは現在、宮廷魔法使組織の一員とみなされている。
その宮廷魔法使は、前第十二旅団長の一件もあってプリエンテ家の圧力で逆らえない。おまけにその最大の原因ともいえる姫君に関わるのだから全方位にデリケートな対応が必要だ。
なによりエリオット自身、実際目の当たりにしてみて、皇室よりもプリエンテ公爵家のほうが隙のない冷ややかな印象を受けた。
皇子と皇女の明るさや無邪気さにぬくもりを感じていたせいかもしれない。あの愚痴っぽいホライナスですら好々爺に思えるほどだ。
だんだんと頭痛までしてきたが、宮廷魔法使の詰所前で馬車を降りた瞬間さっそくサイラスに捕まったことで痛みが増した。彼は今日も煌びやかな装いだ。

「おっそ〜い、待ってたよエリオット!」
「……暇そうだな、サイラス」
「うん、暇ヒマ!てことで食事にしない?」
「悪いが食欲がない」

嘆息混じりに零された言葉に、何がおかしいのかサイラスがけたけたと笑い声を上げた。

「じゃ、執務室に遊びにおいでよ。いい酒があるから」
「勤務中だろ」
「ほんのちょっと舐めるだけさ」

近頃は酒といえば夕食時に出る美味くもない葡萄酒を飲むくらいだったので、エリオットはその誘いに乗った。こんな状況では、もう飲まなければやっていられない。
第四執務室に報告へ行く前にトリスタが出迎えのため姿を見せたので第十二執務室に行くと伝言を残した。

「わざわざ行き先を言わなきゃいけないってのは窮屈だよね」
「仕方がないだろう。僕は正式な宮廷勤めじゃないからな」
「もうオレたちの仲間になっちゃえば〜ぁ?」

まるで食事の誘いのように気軽に言ってのけるサイラスだが、そうなるにはどれほどの努力と才能が必要かと考えると途方もない。
それにこの調子では精神的にもたない。宮廷内にジンイェンという支えがいなければ押し潰されてしまいそうだ。フェノーザ校がいかに居心地のいい職場だったかとしみじみ思うエリオットであった。

「僕には本来の職務がある。宮廷勤めなんて以ての外だ」
「キミなら十分やっていけそうだけどー……っと、こっちこっちィ!さ、入って!」

エリオットが初めて足を踏み入れた第十二執務室は非常に静かだった。ざっと見回した限り、広い室内に比べて人が極端に少ない。
そして旅団長であるクロードの姿もなかった。もっとも、昼日中のこんな時間にふらふらと自由気ままに徘徊している魔法使はサイラスだけだろうが。

第十二執務室にはドアが三つあり、そのうちのひとつを開けながらサイラスが手招きをした。
中は、古い本の独特な匂いと香辛料のようなツンとした芳香が漂っている。分厚い書物が山のように積み上がり、色とりどりの石や動物の骨のようなもの、硝子瓶が所狭しと置かれている。
雑多ではあるが不潔ではない。フェノーザで馴染みの、教授に宛がわれている研究室と似た雰囲気を感じた。

「ここ、オレ専用の部屋ね」
「専用?」
「そうさ。全然仕事なくてヒマだから、そういうときはここで本読んだり酒飲んだりのんびりしてるってわけ」

森からの預かり人であるサイラスは宮廷魔法使がやるべき激務から故意に遠ざけられていると以前に聞いた。
本人はいつも遊んでいるというような口ぶりでいるが、何もしていないわけではないらしい。
書斎机の上に巻物状の用紙が広げられ、その書きかけらしい文面には始祖種族の古代語を使った研究過程のようなものが見て取れる。
それは難解でエリオットには全部を解読できなかったが、魔物の生態における多面的な考察のようだった。
書棚に並ぶ本を見やると、どうやらローグローグの森で受けたステラ族の教育内容を共通語で書き記したらしい書物がずらりと並んでいる。
ここにあるものは世間に溢れるどんな本より貴重そうだ。
書棚に釘付けになっているエリオットを見て、サイラスがくつくつと笑った。

「よだれでも垂らしそうな顔してるよ」
「い、いや、興味深くて……これは全部きみが書いたのか?」
「そこからここまではねー。気になるなら好きなの読めば。……ん、まァそんなのはどうでもいいか。ほら、グラス」

エリオットがサイラスから杯を受け取ると、とくとくとボトルから琥珀色の酒が注がれた。
二人で軽くグラスを合わせてから一口含んでみる。林檎の芳醇な香りが鼻を抜ける蒸留酒だ。
甘味のわりにアルコール分が強く、けれどプリエンテ家で飲んだ茶よりはるかに美味い。エリオットは、緊張で冷えてしまった指先にまでぽかぽかと体の熱が行き渡った気がした。
サイラスもぐびりと酒を煽ってからグラスを持ち上げた。

「さーってと……出世おめでと〜エリオット!」
「何のことだ?」
「またまたとぼけちゃってぇ。そりゃあ、キミがプリエンテ家にも繋がりが出来たことだよ。新しいお役目、頑張ってね!」
「ど、どうしてそれを……」
「あっはは!茶会に招待されたって聞いたあたりでなんとな〜くそうなるかなって。ほら、プリエンテ夫人って美男に目がないからね。案の定、気に入られちゃったみたいだねーぇ」

付け加えて、プリエンテ家の軽装馬車で詰所に戻ってきたことで確信に至ったとのことだ。
サイラスは二杯目の酒を自分のグラスに注ぎながら喉奥で笑った。

「オレもね、宮廷に来た頃は夫人の茶会によく呼ばれてたんだよ。ま、オレは嫌われちゃったけどさ」
「嫌われた?きみ、公爵家に一体何を――」
「愛人の誘いを蹴ったってだけ」

愛人という単語にエリオットはぎょっとした。
姦通と違い愛人は契約関係にある。それは一夫一婦制の意識が強い帝国において夫婦の絆が揺るがないことを前提として結ばれる、貴族の中ではそれほど珍しくない風習だ。
あの夫人がサイラスに過去そんな話を持ちかけていたとは、やはり宮廷というのは恐ろしい場所だと、エリオットの背筋にひたりと冷たいものが走った。

「嫌われたっていっても、オレには手出しできなかったみたい。こーゆーとき族長の息子って立場は便利だね!まあ、公爵家が関わる仕事からは外されるけど、願ったりだよ」
「サイラス……」
「だからキミも愛人の話かな〜って思ったけど違うの?」
「ち、違う!僕はセリーナ様の教師役を頼まれただけだ!」
「セリーナ様って末娘の?ははぁん、なるほどそっちかァ」

訳知り顔でうんうん頷くサイラス。なにがなるほどなのかとエリオットが訝しんでいると、彼は詩でも諳んずるように弁舌を振るった。

「未婚で身篭ったがために疎まれる公爵家の姫君。無二のものだと信じていた恋に破れ傷心の彼女。そこに現れた麗しくも篤実な貴族青年。彼もまた愛する妻を亡くしていた。そんな二人はやがて惹かれあい寄り添う――うん、なかなかのロマンスじゃないか!」
「やめてくれ、からかうな」
「くふふ、ごめんねぇ。キミには愛しい愛しいコイビトがいるもんね〜?」

サイラスは不愉快さを煽るのが実に上手い。もはや才能の域だ。
その淀みのない見事な語り口に聞き流すところだったが、彼もセリーナが現在、腹に子を宿していることを把握しているらしい。

「……きみは、セリーナ様の事情を知ってるのか」
「まァね。こうヒマだと色んなことに耳聡くなるから」

言いながら机にグラスを置いたサイラスは、棚の戸を開けて蓋つきの硝子瓶を取り出した。
表面に細かい模様が刻まれた香水瓶のようで、中にはほんのりと淡いさくらんぼ色の液体が入っている。その瓶をサイラスがエリオットに差し出した。

「ってことでー?はァい出世祝い!」
「何だそれは」
「ブエェルウェチアの精油。おっと正確には、精油を希釈したものだね」

ブエェルウェチア――鍛錬場で戦った巨大にしておぞましい魔花を思い出したエリオットは、傷を負った右腿が疼いたような気がした。


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