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誰かに見られぬうちにと抱擁を素早く解いた二人は、タイミングを見計らって衝立から出た。
そうしてジンイェンは再び人の輪に戻り、エリオットはそれを眺められそうな人垣の一番うしろへと移動した。
エリオットが、ペラペラと調子良く口の回るジンイェンの様子を熱心に見ていたそのとき、いつの間にか人がぴったりと隣に立っていることに気付いた。
驚いてそちらへと顔を向けると隣に立った人物が笑顔を向けてきた。その人は胸の前で右手で拳をつくり、それを左手で包むという独特の挨拶をした。

上着の裾が足元まで垂れているゆったりした紺色のヒノン装束を着込み、短い黒髪を綺麗に撫でつけた男だ。
瞳が細く、それ以外は特徴のないようなのっぺりとした造りの顔をしている。一般的なヒノン人らしい顔立ちだ。こうして見ると彼ら民族の中でもジンイェンは別格の男前らしい。
男は青年のような、壮年のような、あるいは中年らしい落ち着きも見え、つかみどころのなさが感じられた。

「こんにちは」
「……こんにちは」

男から声を掛けられてエリオットは目礼を返した。

「慶劇をご覧になるのは初めてでいらっしゃいますか」
「ええ、まあ」
「いかがですか、わたくしどもの印象は。貴国の文化とは大層違って見えるでしょう」
「……見慣れぬ装いばかりで珍しく奇抜に感じますが、その鮮烈さには息を呑むほど圧倒されました」

男がくすりと小さく笑った。彼は実に流暢で淀みのないオルキア語を操る。

「舞台ではそれ以上の快哉をお約束いたしましょう」
「楽しみです」

ジンイェンの言っていた『もう一人の通訳』というのは彼のことだろうかとエリオットが考えていたそのとき、男は魔法使の杖を手に持ってしげしげと眺めた。
一瞬の出来事にエリオットの呼吸がヒュッと止まった。
しっかりと握り込んでいた己の杖をいつ取られたのか、全く分からなかった。奪われたという意識すらなかった。
油断したつもりはない。けれど気が付いたその刹那、すでに杖は男の手に握られていたのだ。

「――ときにお尋ねしますが、あなたは、赤、の意味をご存知ですか」
「え?い、いえ、あの、僕の杖を……」
「赤は我が国では生命の色、転じて吉兆の色としております。祭りや婚礼などには殊に欠かせぬ色でございます」

男の指が、エリオットの杖に結ばれた赤い紐飾りをなぞる。突然話し出した赤とは、それのことを指しているようだった。

「我らが『赤いもの』を授けるということは、特別な意味があるのですよ」
「…………」
「無知は罪ですね」

男の声が嘲るような声音に変わり、エリオットは無作法を承知で己の杖を強引に奪い返した。そもそも先に無礼を働いたのは男のほうだ。自然と声も低くなる。

「一体、何の話でしょうか」
「まだわからないのかな?ああ、こう言えばいいか――また会ったねぇ、エリオット」

急に男の声質が変化した。まるで別人が喋りはじめたかのような変わりようだ。
男から漂う異様な空気を感じ取って、エリオットは一歩あとずさった。声など覚えてはいないが、その喋り方には既視感がある。

「……まさか、あなたは……」
「僕のことは弟から聞いてるでしょ?まあそう警戒しないで。この前はお楽しみのところを邪魔して悪かったね」

欠片も悪いとは思っていないような口調で男が嘯く。
一見、人畜無害そうな存在感の薄いこの男は、ジンイェンの義兄にして暗者のフゥだと、ようやく思い至ったのだ。
以前に遭遇したときは奇妙な白い仮面をつけていたので素顔を見たのは初めてだが――これが本当の素顔かどうかも分からないが――それでもフゥ本人に違いないだろう。

「あ、そうそう僕の名前はチェンだから。よろしくね」

彼もジンイェンのように偽名を名乗っているらしい。もっとも彼のような生業の者に本名があるのかすら疑問ではあるが。

「……わかりました。そのように、覚えておきます」
「うぅ〜ん、ずいぶん嫌われちゃったなぁ。まあ無理もないか」

くく、とフゥが喉で笑う。その笑い方がジンイェンとよく似ていて、エリオットは知らず眉間に皺を刻んだ。

「それから、その赤紐だけど」
「は?」
「その結び方って我が家独自の型なんだよねぇ。まったく腹立たしいね」

うっすらとした笑みを浮かべながら腹立たしいと吐き出すフゥに、気味の悪いものを感じた。
リーホァン一家独自の結び型で、ヒノン人にとって特別な意味があるという赤を託したジンイェン。――そんなことは全く知らされていなかった。
エリオットはそこはかとない絶望感と悔しさで唇を噛んだ。
こんな風に、そのことを他人の口からは聞きたくなかった。恋人の口から聞きたかった。紐結びを授かったあのときにもっと掘り下げて聞くべきだったのだ。

「ま、いずれあの子は家に返してもらうよ。せいぜい今のうちに楽しんでおくんだね」
「……覚えておきましょう。従うつもりは毛頭ありませんが」

向けられた敵意に対してエリオットも冷たい態度で返した。
ジンイェンとは深く情を交わし合った仲だ。そう易々と手放すつもりなどない。
そんな確固たる意思表示をしたエリオットに、フゥは意外だと言わんばかりに細い目を瞠った。

「ふぅん……『僕』のことを承知の上でそこまで言うなんて、なかなか命知らずなお坊ちゃんだね。そういうの嫌いじゃないよ。不愉快だけどね」
「…………」
「あぁでも、きみに意地悪すると可愛い弟に怒られちゃうし、とりあえず宮廷にいる間くらいは仲良くしようじゃないの。ねぇ?」

エリオットはそれに応えず、ジンイェンのほうへと視線を戻した。
彼の傍には学者風の中年が立っており、中年男性はやや拙いオルキア語で話し始めた。
『もう一人の通訳』というのはフゥではなくそちらの男性のことだったらしい。少なくとも通訳は三人同行しているようだ。
ちらりと隣に目をやると、フゥはすでにそこにいなかった。話をしたことすら幻だったかのように感じられるほど、気配は跡形もない。

(……ジンの身内とはいえ、恐ろしい人だ)

エリオットはぶるりと身震いし、怖気で鳥肌の立った腕をさすった。


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