遠ざかる日常


魔物の花と虫の駆除から一夜明け、エリオットは小ぢんまりとした離宮内のとある一室にいた。
豪奢な飾りがいくつも施された部屋の中で、背筋をぴんと伸ばしたまま、ずいぶんと長い時間固まっている。
負傷した腿が痛むが、それ以上に胃がきりきりと引き絞られるような痛みのほうが強かった。

『この方は皇帝陛下のご息女、リアレア殿下であらせられますぞ!』――その言葉が幾度も耳の奥で鳴り響く。

常識として皇族の系譜はもちろん知っている。けれど、まさかあの場に居合わせるなどとは夢にも思わなかったうえに、容姿などは一般に流通している肖像画でしか知らない。
振り返ってみれば、殿下を鍛錬場にいたただの少女として扱っていた。いくら言い訳してみたところでそれは変えようのない事実だ。
それがどれほどの不敬にあたるのかエリオットには見当もつかない。

リアレア殿下と従者の青年が老侍従に付き添われてその場をあとにしてしばらく、呆然としていたエリオットをよそに花と虫の討伐を終えた魔法使が続々とアーチを抜けてきた。
傷を抱えたまま抜け殻のようになっているエリオットを見た宮廷魔法使たちは、慣れない魔物討伐のショックに打ちのめされたのだと、それぞれに憐憫の情を向けた。

戦闘の負傷を治療されたあと一晩中浅い眠りを繰り返し、そうして迎えた翌朝早く、ようやく正気に戻ったエリオットのもとにティナード旅団長と子弟のトリスタが訪れた。
快活な笑みを消したティナードは何の説明もせず、ただ付いて来るように促した。
どんな罪に問われるかとエリオットは戦々恐々としながら数ある離宮のひとつに連れて行かれ、応接間と呼ぶには華美すぎる部屋に一人残されて二時間ほどが過ぎたのだった。

(僕は一体、これからどうなるんだ……)

すっかり血の気の引いた硬い表情でエリオットがテーブルを睨んでいると、不意に小さなノックが響いた。
永遠にも感じていたこの待ち時間から開放されることへの安堵のような、先の見えない不安を恐れるような、そんな複雑な思いを抱えたまま立ち上がる。
ところがドアを開けて中に入ってきたのは、ティナード旅団長でも、宮殿の使者でもなかった。

「――やあ、エリオット」

ガランズ魔物襲撃事件以来の、クロード・オルギット卿の姿だった。
長い黒髪を背の真ん中あたりでゆるく束ね、濃灰色の落ち着いた色合いのローブをきっちりと着込んでいた。

「オルギット卿……?」
「どうかクロード、と。ああ、傷があるのだから立っているのもつらいだろう。掛けてくれ」

クロードは柔和な笑みを見せながら座るよう促した。エリオットが言葉を失っているうちに、続けてサイラスと、二人の子弟が入室した。
子弟らはドア付近に立ち止まり、一方でサイラスはクロードの傍らへ滑るような足取りで移動した。神妙で殊勝な面持ちをした彼は唇を硬く閉ざしている。
エリオットとクロードが椅子に掛けても、サイラスは背筋を伸ばしてその場に立ち、待機のポーズを取った。
話し合いの体制が整うと、すかさずクロードから言葉を発した。

「まずは謝罪を。此度は私の部下の行いで貴君を負傷させてしまったこと、深くお詫びする」
「いえ、あの――」

エリオットが何か返答しようとするその前に、クロードは傍らに立つサイラスへと鋭く視線を投げた。

「サイラス・バルディレオ。お客人に謝罪申し上げなさい」
「……申し訳ございませんでした」
「そうした理由などがあれば、述べることを許可する」
「……件の魔花、ブエェルウェチアとそれに付く怪虫は火に弱いとされています。迅速に殲滅させるためには火を得手とする魔法使が多く必要でした。
 ティナード旅団長から、ヴィレノー殿の鍛錬場への立ち入りの許可を知らされておりましたので、拡大解釈をしてしまった次第です。
 これは私の独断で行ったことであり、どなたの指示も受けておりません」

サイラスがすらすらと澱みなく受け答えをする。彼の謝罪を受けたエリオットは、それに対しどう返すべきか逡巡した。
エリオット自身そんなことは問題ではなく、むしろもっと深刻な事柄を憂いていたので拍子抜けしたほどだった。

「バルディレオ殿は僕に宮廷の案内をしてくださっただけです。負傷は、自分の不手際の結果ですので……その、誰のせいというわけではありません」
「きみの寛容な言葉、感謝する」

クロードは礼を尽くすように胸に手を当てて目線を下げた。そうしたあと、厳しい態度から一転して柔らかな笑みを見せた。

「昨夜のうちに連絡を受けて肝を冷やした。私自身、フェノーザ校ではきみに迷惑をかけてしまったというのに……本当に、なんと詫びればよいか」
「済んだことです」
「せめてもの償いに、要望があれば何なりと申し付けてくれて構わない」

そっとしておいてくれるのが一番だが、体面的にもそれでは納得しないだろう。エリオットは軽く息を吐いて無難な提案をした。

「それでは……昨夜の戦闘で杖先をひどく消耗してしまいましたので、修繕をお願いしたいのですがよろしいでしょうか」
「承ろう」

クロードが部屋に控えていた二人の子弟に視線を飛ばすと、一人が頷いてきびきびと動いた。黒髪の子弟は部屋の隅にある杖立てからエリオットの杖を抜き、お辞儀をして退室した。
その様子を目で追っていたエリオットは、クロードからの視線を受けて彼に向き直った。

「……不快な思いをさせてすまなかった。もともとは私が、きみのことをサイラスに話してしまったのが間違いだったのだ。私の顔見知りだからといってぜひ会ってみたいと言っていたのだが、まさかこんなことになるとは……。私の監督不行き届きだったよ。
 傷の具合は?痛むのなら治癒術に長けた神官を手配してもいいが」
「いえ、そうたいした傷ではありませんので……。治療士殿の見立てでは、薬の塗布をしていれば傷跡も目立たなくなるとのことです」
「そうは言うが……いや、疲れているのに長引かせてはいけないね。我々はこれで失礼するから、ゆっくり休んでくれ。あとできみの部屋に滋養の品などを届けさせる」
「どうぞお気遣いなく」

クロードは、上に立つ者として相応しい思慮深い態度でエリオットを労った。
やはりこうして相対してみても彼は慈愛に満ちた聡明な青年であり、危害を加えてきたあの恐ろしい一面など欠片も見えない。
もちろん、彼が胸中でどう思っているかはエリオットには推し量れないが。

二人の会話中、サイラスは謝罪以降わきまえたように姿勢を正し、ひと言も漏らさずにいる。
そうしていると驚くほど気品溢れた姿になるのだから不思議なものだった。


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