憂鬱な約束


次の日の朝、エリオットは早朝に目が覚めた。眠い目を擦りながら階下に降りると、ジンイェンの姿はすでになかった。
台所のテーブルの上に朝食と書き置きを見つける。

『行ってくる。帰ったら話そう』

いつ帰って来るかなどの書き付けは何もなかった。そっけない文章だが意外と几帳面な字に少し驚く。
このまま二人の距離は開いてしまうのだろうか、それを考えるとエリオットの胸は痛みを増した。
午前中を休日にしてあるので、家を空ける用意をしなければならない。昨夜詰めた旅行鞄は殊更重く感じた。

のろのろと準備をし学校に辿り着くと校内は静まり返っていた。
今日は休日だから生徒の姿も教授の姿も校舎には見えない。
けれど寮住まいの生徒や泊まりこみの教授がいるので生活スペースに近い場所はひと気で賑わっている。


10歳から18歳までの生徒が通うこのフェノーザ校は、大雑把に言えば初等、中等、高等と順列が決まっているが、クラスの区切りを年齢ではなく成績と魔力の強さで分けている。
だいたいは年齢が幼い方が理解力も魔力も弱いが、11歳ですでに高等科にいる生徒もいれば、逆に卒業間近の18歳でも中等科止まりの生徒もいる。
魔法使は実力主義が目に見えて明らかだが、フェノーザ校はそれがさらに顕著である。
それ故にフェノーザ校は優秀な魔法使を多く世に送り出しているとも言える。

高等科の課程を全て修めるか、年齢が18に達せば卒業――と定まってはいる。
その上にはさらなる精鋭の集う最高学府もあるがこちらは狭き門で、たいていの魔法使は高等科を修了すれば各々就職を決める。

大陸中にある魔術学校は年齢別の所がほとんどであるしそれが一般的だとはいえ、エリオットが初めて他所の事情を知ったときには衝撃を受けたものだ。
エリオットは学生当時、成績優秀で順調に行けば17歳で卒業の予定だった。
しかし、ティアンヌを亡くした心痛で単位取得が遅れ、結局18で卒業したあとそのまま研究生として居残り、20の頃に伯爵の推薦で准教授の職に就いたのだった。



フェノーザ校は森を背に壁に囲まれている。敷地全体に空間拡張の魔術が施してあるので、外観よりかなり広々とした学校である。

授業を受けるための校舎は堅固な城のような白壁の建物で、上から見ると穴の開いた箱を上下に二つ重ねたような形をしている。
そしてその裏側、東に二十分ほど歩いた先に学生寮と教授用の宿泊施設が併設されていた。
反対側には演習場として広い敷地が設けられており、その先は森が広がっていて更に先には山に続いている。もちろん森も山もフェノーザの敷地だ。

エリオットは結婚前に男子寮を利用していたのでその構造はかなり詳しい。抜け道や秘密の場所など生徒が使いそうな所はほとんど網羅している。
そういう場所を避けて宿泊施設への近道を行くと、誰にも会わずに目的地へと着く――はずだった。

小さな噴水の傍に一人の女性が立っていた。
緩く巻かれた艶やかな長い赤毛に白磁の肌。横顔を見てもわかる、整った美しい顔立ち。胸や腰が張り出した魅力的な肢体。
エリオットの姿に気付くと、女性は鮮やかな緑の瞳を細め、にこりと笑った。

「……おはようございます、アンスラン教授」
「あらいやだ。セシリアと呼んでちょうだい」

華やかな美貌のセシリアは二級魔導士で『系統魔法』の教授だ。三年前にフェノーザに赴任してきた、首都の大商家の一人娘である。
彼女は初等科を受け持っているのでエリオットと学内であまり会う機会はない。

「ごきげんようエリオット。あなたは今日から泊まり込みかしら」
「ええ。教授……セシリアは?」
「私は一昨日から。私もあなたも苦労するわね」

セシリアが困ったように眉尻を下げて笑う。
そう言ってはいるがあまり苦労だとも思っていない様子だ。ただ自分の美貌に自信があり、それを認めているような口ぶりにしか聞こえない。
同じ年のセシリアはエリオットを異性として意識し、大いに気に入っていた。エリオットも彼女の魅力に少しだけ傾いたことがある。
言葉巧みに誘われて何度か二人きりで食事や観劇に行ったが、男女の仲になる気にはなれずそれ以来意識的に避けていた。
美しいが毒がある――彼女はそういった印象を抱かせる女性だ。

「こんな所でどうしたんですか」
「あなたを待ってたに決まってるじゃない」
「僕を?何か用が?」
「分かっているくせに焦らすのは紳士のすることじゃないわよ」
「…………」

心当たりならある。エリオットは毎年この時期に彼女から同じ言葉を聞かされていた。

「……申し訳ありませんが別の方と」
「あなたがそう仰るから、私はずっと一人きりなのだけれど」
「僕は誰とも行く気はありません」
「奥様に悪いと思ってらっしゃる?」
「そ、それは――そういうことではなくて」
「では今年こそ、私をエスコートしてくださる?エリオット」



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