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糸雨が彼の手に引かれて森の中を歩み進んでいる途中、主は前を向いたまま世間話の気楽さで話しはじめた。

「――今宵は寝付けなかったと申しておったな、おぬし」
「あ、はい」
「それは、狭間に肉体が順応してきた証であろう。ここはヒトの身では負担が大きい。なれば目覚めている刻は本来短いものなのだ。それも血肉が馴染むにつれ、長く活動できるようになる」

主の説明に糸雨は素直に得心した。毎日毎日、疲れているにしても異常なくらい、夜は全くと言っていいほど動けなくなっていたのだから。
話しながらも主は滑るような歩調で山道を進んだ。
彼に手を引かれている糸雨も、動きはゆったりとしているのにどんどん先に進んで行くように感じる。一人で歩くより段違いの速度だ。

「おぬしの順応がかくも早いとは……私としたことが油断しておったわ。そもかねてより、おぬしが狭間に十分に馴染んだのち、段取りをつけてから一ツ目鬼と会わせる心づもりであったのだ」
「なんであんな……あんな奴と会う必要があるんですか」

一ツ目鬼の顔を思い出すとどうしてかふつふつと怒りが湧いてきて、糸雨は顔を顰めながら口調を尖らせた。
そんな少年に反して、主が愉快そうに声を上げて笑う。

「余程怖い思いをしたようだな、小童。しかしここに住む以上、あやつを避けられはせぬ。あれが居るおかげで山の均衡が保たれておるのでな」

どう見ても害悪にしか思えない存在が、なぜ均衡という言葉に繋がるのか。さっぱり理解できずに糸雨はますます不機嫌さを増した。
そんな少年の言い分などお見通しとばかりに、主は振り返りもせず喉の奥で悪戯っぽく笑った。

「あれが居なくなると魑魅魍魎どもが好き勝手のさばり、余所から魔を呼び込む。さすれば私の力だけで抑え続けるのは難しくなるゆえ」
「はあ……毒をもって毒を制す的なやつですか」
「あの程度の毒なら愛いものよ。まことの闇はもっと恐ろしい」

主がわずかに語気を落とし、低い声で言う。
大げさに脅すのではなく、単に事実を言っているだけだという平坦さがかえって恐ろしく聞こえる。
泥と夜露に濡れた体がひときわ寒く感じられて、糸雨は身震いした。
その震えが繋がった手から伝わったかどうか、主は一笑してから声色を明るくした。

「一ツ目とは長い付き合いでな。あれはヒトの情念や山に溜まった邪気が凝り固まった存在であるので、他の者に比べて私の命を聞かぬことがある」
「ええ……」
「あやつはヒトを害するのが生来のたちであるゆえ、会えばしつこくおぬしに絡んで参るだろうが、手出しはさせぬから案ずるでない」

この先もあんな捻じ曲がった男と付き合い続けていかなければならないのだと思うと、糸雨は気が重くなった。
しかし主とあの嫌味な男が二人きりで親しく付き合う姿はもっと見たくない。それを考えるだけで何故か心が激しくささくれ立つ。
また、一ツ目鬼をやたらと庇うようなことを言う主にも苛立ちは募った。
自分でも理由がはっきりとしないこのもやついた感情に、糸雨はただ、主を握る手に力を込めた。



「ここだ、糸雨」

太い木を曲がったところで眼前が開けて、糸雨はあっと声を上げた。あれだけ走っても出られなかった森を抜けたのだ。
ところが着いた先は屋敷ではなかった。山の中腹にある小さな古堂だ。

ここは糸雨も家出中に何度か訪れている。
建物の背面にそびえる切り立った岩壁があるのが珍しいくらいで、壊れかけた古い小堂はそれ以上面白味もない。
賽銭箱は歪んでいて、砂と埃まみれの堂の中もほとんど空っぽだ。
建物の金属部分は錆を通り越して腐食している。
何かを祀った形跡はあるものの、その本体らしきものは見るも無残に朽ちていた。
さして興味もなく通り過ぎていたこの場所が主の目的地だということに、糸雨は心底不可解に感じた。

主は古堂の正面を回り込み、裏手側に歩を進めた。彼の手をいまだ握っている糸雨も一緒にそこへ導かれる。
すると糸雨はまた驚きに声を上げた。

苔むしてごつごつとした灰色の岩壁があるばかりだったはずのそこに、今、見上げるほど立派な棟門ができていたからだ。
上部には屋根瓦の庇が設けられ、それを支える門柱はどっしりと太い。
今は門扉が両側に開いていて、中にぽっかりと暗い穴が見える。
そして門の前には屋敷で見たのと同じ二対の石灯籠が立っていた。それは屋敷のものと同じく青い灯を揺らめかせている。

「あの燈籠……」
「うむ。ここは屋敷のあの場所と繋がっておるのだ。近道のため繋げたのであるが、よもやおぬしを巻き込んでしまうとは思わなんだ」

本来なら主しか通行できない『道』であり、屋敷からここまで一瞬で移動する仕掛けになっている。
けれど糸雨が触れた時、主から与えられた少しの精気のせいで主と同等に石碑が反応し、そのくせ力が足りずに途中の山中に放り出されたのだ。

洞穴の先に気を取られてそれらの説明を上の空で聞き流していた糸雨は、繋いだままの手の甲をパシッと鋭く叩かれて、慌てて主に目を向けた。
ないがしろにされた主はフンと鼻から息を吹いた。そうして彼は笑みを浮かべ、糸雨の手の甲を二、三度優しく叩いた。

「今後おぬしが触れても応じぬよう、『道』は閉じておく。それから、私の力の使い方も伝授するとしよう。またかような事が起こるのでは寝る間もなくなるのでな」

どこか楽しそうに主が言う。彼のように不思議な術が使えるようになると思うと、糸雨もまた大いに興味をそそられた。
足音を潜め、主が門の前に立つ。糸雨も隣に並んだ。

「ここは元来私しか入れぬ場所。おぬしの持つ精気の程度では弾かれるやもしれぬから、このまま私の手を放すでないぞ」
「……はい」

糸雨が神妙に頷いたのを見たあと、主は少年を引っ張りつつ門をくぐった。


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