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庭に面した畳敷きの座敷は、障子戸を開け放しているにも関わらず薄暗かった。灰色の雨雲が陽の光を遮っているからである。
今日は夜明け前からずっと細い雨が降り続けている。
そぼ降る雨は庭の木々の葉や草花、庭石、砂利を満遍なく濡らし、それらの色を濃くしていた。
水滴は翠色の池の水面に間断なく波紋を描き、中の様子が見えないほど水を濁らせた。

雨粒が屋根瓦を静かに叩く中、つげ櫛で髪を梳る音がする。
広々とした座敷には二人の人影があった。年齢はそう変わらないような青年二人である。
一方は着流し姿の雅やかな男で、鏡台の前で胡座をかいている。
そしてもう一方は小袴を身に着けた青年だ。着流しの男の背後で膝立ちをして、彼の長い黒髪を梳いている。
彼らの身分は明確に線引きされていた。

しばらくして、鏡台の前の男が気怠げに口を開いた。

「糸雨(しう)」

その言葉は今まさに降っている雨を表したようだったが、熱心に髪を梳いている青年が顔を上げた。
彼の顔は目鼻立ちがくっきりとして整っており、生まれつき口角が自然に上がっていることも相まって優しげな雰囲気を醸し出している。
それでいて頬から顎にかけての輪郭はすっきりと鋭く、体つきも引き締まっているのでなよなよしい印象はない。
青年は――糸雨は、手を止めてにっこりと微笑んだ。

「何ですか、主様」
「……糸雨、おぬしはいつまで人の頭をいじくり回す気なのだ。いい加減眠くなってきたぞ」
「湿気でうまく纏まらないんです。もう少し辛抱してくださいよ」
「そこまで念入りにせずとも良いというのに」
「いいわけがないでしょう。まさかまた狸にやらせるつもりじゃないですよね」

主と呼ばれた男は、何度も噛み殺していたあくびをついに我慢できなくなった。
ただでさえ朝から屋敷内が薄暗く、まだ眠気が覚めきれていないというのに、鏡の前でじっとしているこの時間は彼にとって退屈でならないのだ。
主が大口を開けてあくびをすれば、纏まりかけていた髪がぱらぱらと解けた。

糸雨が恨めしげな目つきで睨みつける。
鏡越しにそれを見た主は、肩を縮こませて居住まいを正した。
これではどちらが主人なのか分からない。

「狸でも河童でも何でも良い。私は腹が減ったぞ。そろそろ朝飯時であろう」
「ここへ運ばせましょうか」
「よもや私が食う傍らで結い続けるつもりではあるまいな」
「あなたが空腹だというから……」
「ああもう分かった。腹など空いておらぬし眠くもない。私は動かぬから、気の済むまでおぬしの好きにするが良い」
「はい、主様」

糸雨は満面の笑みを浮かべて主の髪をもう一度束ねた。
主様と呼ぶわりに、糸雨の言葉遣いも態度も随分とくだけている。そして主はそれを咎めもしない。それどころか糸雨のしたいようにさせているのだ。
主従というには奇妙で、けれどもある種の絆めいたものが二人の間にはある。

――糸雨はふと、この屋敷に来た日のことを思い出した。あの日も今のような細い雨が降っていた。

この建物は数寄屋風の書院造で、ただの日本家屋とは言い難いほど手間も趣向も存分に凝らしており、いかにも風流人好みの風情ある造りをしている。
ところがこの屋敷は、つい数年前に建てられたばかりのような状態を保っている。
柱も、梁も、障子も畳も、艶があって新鮮な木の匂いがする。それらは傷も劣化もなくずっと変わらない。

そして変わらないといえば、目の前の『主』もである。
出会った時のまま少しも変わらず、糸雨の方が彼の見た目の年に追いついてしまった。
主は二十代半ばといった見た目のわりに、妙に古くさい言葉で喋り、黒髪は腰に届くほど長く、いつも白足袋に着流し姿だ。
これでも本人は時代の最先端を捉えていると思っているようだ。糸雨からすれば、時代を履き違えた仮装にしか見えないのだが。
ただ仮装と違うのは、それらが彼にしっくりと馴染んでいることと、所作が板についていることだ。
品のいい仕立ての着物を纏い、常に昂然とした物腰は、多少奇妙だろうと時代錯誤だろうと説得力をもって周囲を従わせてしまう。糸雨もその一人だった。

実を言うと糸雨は、彼の名前も知らない。
周りの者が皆こぞって「主様、主様」と呼んでいるので、それに倣っているだけにすぎない。
そもそも『糸雨』という呼び名すら本当の名前ではない。
ただ、こんな細雨の降るなかで拾われたから、主がそう名付けただけのことだ。

しかし九年も呼ばれ続けていれば馴染むもので、糸雨は存外その響きを気に入っていた。
特に、主の低く凛とした声で呼ばれるとひどく落ち着く。
自称『山守』だという、人ならざるこの主に。

糸雨が熟孝しつつ様々な形で何度か髪を結い直し、高く結い上げて元結で固く留めた時、トタトタと縁側を走る軽快な足音が聞こえた。
主も糸雨も同時に顔を上げて縁側を見た。

二人がいる座敷に顔を見せたのは狸だった。ただし、二本の後ろ足で歩行する狸だ。
おまけに体には子供用よりもっと小さな、獣の体にぴったり合うようあつらえた海松色の着物を纏っている。
狸は、座敷の外側でちょこんと正座をして二人に向かって深々と頭を下げた。

「主様。糸雨様。朝餉の支度が整いましてございます」

幼子に似た甲高い声で狸が人語を喋る。つっかえずに伝えた狸は、丸い黒目を二人に向けた。
特に、糸雨の手元をじっくりと見る。主に仕える狸にとって、器用に動く人間の手は憧れなのだ。
いくら人型に化けようと手指ばかりは曖昧になってしまう。動きもぎこちなく、糸雨のように主の髪を上手に結うことができないのである。

狸の言葉を聞いた主人は、ようやく解放されるとばかりに大きく息を吐いて、肩を上下に動かした。

「ほれ糸雨、そこまでにせよ。飯が冷めては賄方が気の毒であろう。それに、この後おぬしに頼みたいこともある」
「見回りですか?」
「否。今日は蔵の中を整えよ」
「ええ……」

反射的に糸雨は顔をしかめた。
蔵は物が雑多に収めてあり、しかも母屋と同等に広く、暗くて寒くて騒がしくて、とにかく用があっても入るのを遠慮したい場所だ。
わざと時間のかかる仕事を申し付けて、そのあいだ主は二度寝を決め込む腹づもりに違いない。
近頃、主はこんな風に糸雨をせっせと働かせておいて自分は怠けている。かといって糸雨が彼に文句を言える道理もないが。


食事のあと、糸雨は掃除用具を抱えて蔵へと向かった。
蔵は屋敷の敷地内にあるものの、母屋とは離れた場所にある。
足元を極力濡らしたくなくて小袴の裾を絞り上げ、番傘を片手に敷石の道を急ぐ。
すると、霧立つ細雨の中、池のほとりに子どもを見つけた。
咲き乱れる紫陽花の陰に埋もれるようにして、子どもは傘も差さず池の中を熱心に覗き込んでいる。
――河童だ。

「あっ、しう!」

糸雨から声を掛ける前に河童の方が顔を上げて、ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら近寄ってきた。
子どもでいえば五、六歳といった背丈の男児のようだが、亀に似た甲羅を背負っている。
蛙の如き青々とした皮膚と頭頂部の皿は、今は雨に濡れてつるつる光っていた。
顔も蛙のようで、この人間離れした姿を初めて見たときは恐ろしく感じたものだが、見慣れると表情豊かでなかなか愛嬌がある。
河童はどれも似たような見た目をしているものの、糸雨はこの河童だけはすぐに見分けられた。

「しう、しう、どこ行くの?どこ行くの?」
「蔵だよ。掃除と中の物の整理をするんだ」
「しう、たいへんだね、しう」

同情も労いのかけらもなくケタケタ笑いながら河童が楽しそうに言う。
河童はただ雨の日が嬉しいのだ。いつもより生き生きとした笑顔を見せる河童に、糸雨もつられて顔をほころばせた。

「お前は何を見てたんだ?」
「ナマズくん。呼んでるのに、へんじしない」
「あの沼の長老は今、怪我をして弱ってるんだ。主様の池とはいえ療養には時間がかかるそうだよ。まだお前とは遊べないから寝かせておいてやりな」
「しうはすぐ遊べるようになったのに」
「……俺とは違うよ」

腕を組んで、よく分からないといった顔で首を傾げた河童が、またぴょんぴょんと跳ねて池のほとりに戻っていった。
河童が再び黙ったまま池を覗き込みはじめたのを見て、糸雨も蔵へと足を向けた。

糸雨にとってあの河童は、命の恩人と言ってもいい。
九年前のあの日、あの子が見つけてくれなかったら糸雨は本当に死んでいた。


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